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ト伝 vs 一刀斎  作者: 古河 渚
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▼ 銛付き ▼

▼ 銛付き ▼


 村を出奔しゅっぽんした典膳が再び神子上村に現れたのは天正二十年(一五九二年)の夏で、それは彼がその地を出立してから二年が経っていた。

 典膳は自分の生まれた家に立ち寄り父母に挨拶をすると、翌日には神子上本家を訪ねた。本家では来訪をたいそう喜び、神子上一族をまとめる神子上みこがみ元晴もとはると長子の兵部ひょうぶが歓待した。大広間に通された典膳が、脇に大小を置いて平伏して待つと、主人元晴が「荒神」と書かれた掛け軸を背にした席に座る。その少し下には兵部が座り典膳を見据えた。


「典膳か、よう戻ったな。面をあげて楽にせよ」

「はは、本家の元晴様はじめ兵部様もお元気にて執着しごくにございます」

「まあ、堅苦しいあいさつはええ。もう、二年かのう、お前が一刀斎殿に付いていってから……、その後消息も聞こえなんだから、どこぞで斬られたんじゃないかと心配しておった」

 元晴は話しながら脇そくにもたれかかる。

「鎌倉の中条流道場で半年ほど修行をし、その後、一刀斎先生と兄弟子の善鬼ぜんき殿と三人で関東の地を巡りましてございます」

「それで、修行は成ったのか?」

「いえ、まだ修行中の身でございますが、このたび一刀斎先生より故郷に立寄り挨拶をしてこいとのことで、まかり越しました」

「のう典膳、儂等の境遇もこの二年間で大きく変わってしもうた。太閤殿下が小田原攻めをしたおりに、我ら里見方の参陣が遅れたとのことでたいそうお怒りになってのう。上総かずさ下総しもうさの里見領は全て没収となり、安房あわまで取られてしまうかとの折に、家康公が取りなされてのう、なんとか今の状況で落ち着いておる。その後、家康公も関東へと移られて、いまは太田道灌殿が造ったという江戸城を修築して入られたようじゃから、江戸は大きな街になるじゃろう。里見の御館様も家康公には近づこうとしておるからのう……、それで……、実は、神子上家には内々で江戸に出て家康公との連絡係をやるようにとの沙汰さたが出ておる。儂はお前を江戸に連れて行きたいと思うとるんだが、どうじゃな」

「いまだ修行中の者に、そのようにお声を掛けていただき有難く思います。ですが、まだ何も悟らずにもがき苦しんでおります由、そのお話は平にご容赦を」

 典膳が畳に平伏すると、兵部が乗り出して声をかけた。


「典膳、妹の桔梗ききょうをもろうてはくれんか」

「桔梗様、桔梗様をですか?」

 典膳は平伏したままの姿勢で答える。

親爺おやじ殿を安心させてくれ。お前が桔梗と一緒になって我らと共に江戸に行ってくれれば、神子上一族は安泰じゃ。そこをよう考えてくれ」

「ですが、桔梗様は水月を慕うておられると存じますが」

「水月か。水月が崖から沢に転落したと申したのは、典膳、お前であろう」

「はい、それは間違いありません。二年前の夏でした」

「それから、水月の消息はよう知れん。儂も去年の夏には水月を探しに三石山の山中にまで分け入ったのじゃが、何も判らんかった。その後、水月が村に戻った形跡もないし、水月を見かけたとの報告もない」

 兵部は約半年前に水月と出会ったことを思い出しながら続けた。

「水月は死んだ。そう考えて差し支えないと思うがのう。桔梗にも水月は亡くなったと伝えてある」


「ですが、一月ほど前にワシ等三人が下総の盗賊集団に出会うたときに、奇妙なことを聞いたのです。そいつらは、ワシ等を取り囲むと武芸者の神子上水月を知らないか? とそう尋ねたのです」

 兵部は後悔していた。そうか、あの時に俺が水月を斬り捨てておけばよかったのだ。だが、しかたがない、ここは知らぬ存ぜぬしかない。

「それは何かの間違いであろう。そのような噂があれば我らの耳に入らぬわけがない。それよりも、そんな噂話はいっさいしないほうがいいだろう」兵部は続ける「噂は嘘にきまっておる。それよりもさっきの件じゃ、お前の気持ちを聞かせてくれ。我妹である桔梗を嫁にするのに何か不足があろうか? よいか、典膳、顔を上げて儂の顔をしっかと見て答えてみよ」

 典膳は顔を上げた。


「では申し上げます。……ワシには過ぎたお話で、不足などあろうはずがありません。ただ、水月が生きているのであれば考えねばなりません。ワシは水月と桔梗様が夫婦めおとになる約束をしたことを知っとるからです」

「言うな、典膳。武家の娘は親の命にしたがい嫁ぐと決まっておろうが」

「はい。では、もう一つ申さねばならないことが……、数ヶ月以内にワシか兄弟子の善鬼殿か、そのいずれかが一刀斎先生から印可を受けることになっております。こたび、村に立寄りましたのは、お別れの挨拶になるやもしれんと感じたからです」

「それは、お前か善鬼殿か、いずれかが死ぬということじゃな?」

 それまでじっと眼を閉じて典膳と兵部のやり取りを聞いていた元晴は、眼を開けると慎重な面持ちで尋ねた。

「その通りでございます」

「では決まったのう。お前が勝ったときは桔梗を貰ろうてくれるな。万が一のときは隣村に嫁にだす。是非にというてくれる家があるにはあるでな。よいな。それで」

 元晴はそう言うと、腕を組んだままで典膳を見据えた。

「はい。桔梗様のためにも必ず勝って戻ります。それで、ここを出立する前に是非、桔梗様にお目にかかりたいのです」

「わかった。しばらくここで待つがよかろう」

 元晴と兵部は部屋を出て行った。


 二十畳もある広々とした書院造りの和室からは、広々とした庭園が見える。池があり築山がありその奥には木々が生い茂り、しきりに蝉が鳴いていた。蝉の声を聞きながら典膳は、三石山へと続く沢を水月と登った時の会話を思い出していた。


「もし、お前が負けて修行に行けなくなったときはどうするんだ……。桔梗と夫婦になるつもりはあるのか?」

「負けはせんから答えんでもいいが、まあ、ええよ。答えても……。俺は桔梗と夫婦になるんじゃ。だが、百姓や木樵きこりや漁師の女房にする気はない。修行を終えて、誰よりも強い武芸者になってから、あいつを迎えに行く。そう決めとる」

「桔梗は知っとるのか? お前の気持ちを」

「さあな、なんとなく言うとるんじゃが……、だが、先生と修行に出る前には言うつもりじゃ。俺が帰るまで待っててくれとな。そんなことより、お前こそ桔梗をどう・・・」


 武芸者の運命も過酷じゃが、女子おなごの運命も過酷じゃのう。好きな男と添い遂げることも叶わんのか、特に武家に生まれた女子おなごはそうじゃ。その家の運命を背負うておるのじゃからなあ。そんなことを考えているうちに衣擦れの音が近づいて来た。

 振り向くと、紅色に刺繍の入った桃山小袖に身を包んだ美しい娘が目に映る。


「……桔梗か、二年ぶりじゃろうか。なんか、美しくなってしもうて判らんかった」

 典膳は、元晴と兵部の前とは違って呼び捨てにした。

「典膳、昔より口が巧くなってる」

 桔梗は笑みを浮かべて続ける。

「生きて帰って来るって約束したのを覚えててくれたのね。あなたに会えて嬉しいわ。あの時の、あの狂った眼をした男はどうなったの? あなたがあいつに斬り殺されるんじゃないかって心配だったのよ」

「ああ、善鬼か。いままでは何とかうまくやってきた。これからは判らんがのう……。ところで、今日はお前に大事な話があって来たんじゃ」

「大事な話?」

「さっき、元晴様と兵部様にお願いした話じゃ。ワシはお前を嫁にもらいたいとお願いしに来たんじゃ」

 典膳は嘘をついた。嫁にもらってくれと言ったのは、桔梗の兄のほうからだ。でも、それはずっと心の底に隠してきた本心だったのだ。

「…………」

「じゃが、すぐにと言う訳にはいかん。まだ誰にも話してはおらんが、ワシはもうじき死ぬかもしれんからのう」

「死ぬ? 死ぬって……、戦があるのかしら? 小田原に出陣したときみたいに……」

 桔梗の問いかけに典膳は反応しなかった。桔梗は続けた「あの戦では神子上の人たちも何人か死んだわ。今度はどこで戦があるの? ねえ、どういうことなの、訳を聞かせてよ、典膳」

 重なる問いかけに典膳はことのいきさつを話はじめた。


 典膳が神子上村に来る数日前のことである。その日、一刀斎と善鬼そして典膳は下総の小金原こがねはらにいた[今の千葉県の松戸近郊である]。小金原は広大な原野であり、樹林帯と草原そして湿地帯などで構成されており、昔から馬の放牧地として知られていた。草原から湿地帯に移り変わる部分は、田や畑を開墾するのに向いており、その一帯には人々が暮らす村が形成されていた。

 ススキが広がる原野はまだ秋のように一面が白色ではなく、まだ青々として広がり、その中にポツリポツリと樹が立っている。その中のクヌギの巨木の下でのことだ。一刀斎は二人に五間ほど離れるように告げ、二人が離れると話はじめた。


「儂はそろそろお前達おまえたちに印可を与えようと思うておる。だが、印可は一巻でお前達は二人おる。そこで、立ち会うて勝った方に印可を与えようと思うとる」

「場所と時間は」

 善鬼は殺伐とした声を上げた。すでに全身からは相当な殺気が立ち上っている。

「場所はここじゃ。そして時は今から二回目の満月の日の夜明け、つまりその日の辰の上刻とする」

「先生、そんなことは無用だ、今すぐここで勝負させて欲しい。必ず典膳を血祭りにあげてみせる」

 善鬼はすでに刀の束に手をかけて抜刀する構えを見せている。典膳は一刀斎が二人を五間離した理由を理解していた。もし、並んでいたならば既にワシは斬り伏せられていたであろう。


「善鬼、儂が決めたことじゃ。よいな。場所と日時は変えん。二人ともただちにここから立ち去れい。ただし、二人は別方向に向かうことにする。まず、典膳、お前から走りされ、どこへ行って何をやっても構わんぞ。それから、しばらくしたら、善鬼、お前も立ち去れ。儂はしばらくここにおるからのう」


 典膳は迷った。北西に向かえば今まで通って来た武蔵に戻る。そこに行けばラッパやスッパを相手に人斬りの修行には事欠かないだろう。だが、すでにその経験は充分である。北東に向かえば常陸に出ると聞いていた。そこは陰流が栄えている地だというから、その地でまだ見ぬ武芸者と斬り結べば、新しい境地にたどり着けるやもしれぬ。だが、典膳が選んだのは南東だった。南へゆけば安房に出るだろう。一度村に帰り、そして桔梗に会いたい。そういう気持ちがなかったかといえば、それは嘘になる。しかし典膳はもう一つ別のことを考えていた。満月は数日前に過ぎたばかりだ。二回目の満月は今から五十日くらい後である。なぜ一刀斎先生はそんな日時を指定したのか? 典膳はある決意を固めていた。

 典膳は全速力で走り去った。行き先は神子上村である。

 善鬼が北東に向かった後、半刻ほどして、一刀斎は北西に進路を取った。

 夕暮れ間近の小金原に残ったのは、青いススキがたてる風の音と寂しげなヒグラシ蝉の鳴き声だけであった。


「典膳、典膳」桔梗に呼びかけられて典膳は我を取り戻した「どうしたのよ、典膳」

「いや、考えることがあってな……」

 そのとき典膳は新しい剣の境地にたどり着くための修行について考えていた。その境地に到達しなければ、たぶん、斬られるだろう、と。

「ねえ、あの人斬り魔の善鬼とやるのね」桔梗の顔に心配の色が浮かぶ「怖いわ、典膳。あの男と斬り合うのはやめたほうがいい」

「桔梗、よく聞いてくれ……、ワシが善鬼を倒したら、ワシと夫婦めおとになってくれ。これは、正直な気持ちなんだ。ワシはずっと昔からお前が好きじゃった。でも、それに気づいたのは水月とお前が仲良うなったあとじゃったから、ワシはそれを隠して消してしもうた。じゃが、死を感じなければならん今、どうしても正直な思いを伝えたいんじゃ。ワシが勝ち残ったらでいいから、そのときは夫婦になると約束してほしいんじゃ」

 典膳の言葉や想いに嘘偽りはなかった。

「典膳……、ありがとう。嬉しいわ、とっても。でも•••…」

「まて、桔梗……、その先の返事を聞く前に、実はもう一つ重要な話がある。夫婦の話はこれを聞いてから考えてくれ……、水月のことだが何か聞いているか?」

「水月のこと? 何も聞いてないわ。もう一年くらい前だから水月が行方不明になってから一年後よ。わたしと兵部兄様と弥助の三人で三石山の沢まで探しに行ったことがあった。わたしは髪を切って男の身なりで探しに行ったの、でも、人がいた痕跡を見つけただけで水月は見つからなかった。兄様も父上様も髪が結えるまで伸びたら、水月を忘れて誰ぞと夫婦になれって言ったし、わたしは……、もう水月が消息を断って二年になるから、それもしかたがないのかなって考え始めていたの。だから、典膳がわたしをもらってくれるのなら嬉しいわ」


 典膳は桔梗の話を聞いて一瞬迷った。だが、それを隠すことはできなかった。

「実は、一月ほど前のことだが、下総の街道で盗賊集団に襲われたときに意外な問いかけを受けたんじゃ。そいつらの一人が神子上水月を見かけなかったかと言うたんじゃ。それで、なんかの間違いじゃないかと思うて、神子上典膳の間違いではないのかと問うと、たしかに神子上水月じゃと言い張った。なんでも、そいつは盗賊集団の武芸者を切り捨てたとかで、追いかけていると言うていたんじゃ」

 桔梗が黙ってしまうと妙な静寂が室内に充満した。遠くで蝉の声が聞こえており、池の魚が跳ねる音さえ聞こえてきた。


「ねえ、典膳」桔梗が口を開くのにどのくらい時がたったのだろう「水月のことは聞かなければよかったのかもしれない……。水月が今も生きてるのかどうか判らないけど、でも、聞いてしまったことは元には戻らないから。それに、典膳は命をやり取りする斬り合いに向かうんでしょう。だからわたしの想いも正直に話さなければならないと思う」

「ああ、ワシもお前の正直な気持ちを聞きたいと思うとる」

「わたしたちは幼い時から一緒に遊んだり剣術をしたりした幼なじみだから、わたしは水月も典膳も同じように好きだった。でも、二人は性格が反対なのよ。天真爛漫だけど気が小さくて努力家じゃない水月、言葉は少ないけど剛胆で辛いことにも立ち向かえる典膳、だから戦場で、水月は典膳の後ろに隠れているばかりだって兵部兄が言っていたわ。でも、水月はそんな自分を変えたいって、いつもわたしに言ってたのよ。頑張って修行して強い武芸者になりたいって、だから、わたしは水月を応援しよう、支えてあげようって、そう思ってた……。典膳にはわたしは必要ない、きっと一人でも立派な武芸者になるだろうって……。だから、さっき、あなたの気持ちを聞いて、わたしはとても嬉しかった。わたしでも典膳の支えになれるのかなって……。でも、今、水月が生きているかもっていう話を聞いた後では、素直に、あなたと一緒に行くって言えないの。それが今のわたしの正直な気持ちなのよ。でも、あなたには絶対に善鬼に勝ってほしい」

「正直な気持ちを言ってくれてありがとう。桔梗、ワシは絶対に生き延びてみせる」

「そうよ。今は善鬼を倒すことに全てをかけて……、絶対に勝ってね、典膳」


 その後、典膳は桔梗の兄である神子上兵部に桔梗と話した内容を説明した。つまり典膳と桔梗はもう一度会う約束をしたが、それが実現するためには約五十日後に行われる善鬼との決闘に勝たねばならないこと。そして、桔梗と再会したときには、桔梗を嫁に迎えたいと話したことなどである。兵部は説明に納得した。


 神子上本家を辞去した後、典膳は本家で働いている弥助とともにそこから一里ほどしか離れていない近くの漁村に向かっていた。クジラやカジキを銛で捕る修行をするためである。二人は弥助の知り合いの漁師で、安房の銛突き名人の名をほしいままにしている、銛突き五郎兵衛を訊ねた。


「ワシは神子上典膳と申す者で、武芸をたしなんでおるが、ぜひともツキンボの技をみたい、いや、ツキンボの技を会得したいと思い、ここまで来たんじゃ。是非ワシに教えてくれんじゃろうか」

「五郎兵衛さ、どうかツキンボの技を教えてやってもらえんだろうか」

 弥助も頭を下げる。

「うんじゃ聞くが、お前様は船に乗ったことはあるんかいのう?」

「渡り舟くらいならあるが、漁に出る船には乗ったことはない」

「渡り船なんざぁ大地と同じじゃけえ問題なかよ。だが、大海原さ出たら天地がひっくり返るほどの揺れじゃけん。まず、それん慣れんまでは銛も持てんじゃろう」

「漁船は出とるんかい」と弥助が尋ねた。

「ああ、今ん季節はカジキが産卵しに岸によるけえ、漁船は毎日出とるよ」

「ならば頼む、ワシをあんたの弟子にしてくれ。五十日しかないが、なんとかツキンボの技を会得したいんじゃ」


 二人の真剣な言いざまを聞いて、五郎兵衛もついに折れた。その日、典膳は大小を腰から外すと、神子上村にある弥助の小屋で預かってくれと弥助に頼んだ。

 その日から銛突きの修行をはじめる。浜に木製の的を置き、それを三又銛で離れたところから狙うのである。的との距離を一間からはじめたが、あっという間に五間までの距離ならば百発百中になった。それを見て、五郎兵衛は明日から船に乗せると言ったのである。

 翌日、典膳は大きく揺れる船で苦しんでいた。船酔いであった。だが度肝を抜かれたのは、その上下左右に大きく揺れる船上で、三又銛を構えて海を見つめる五郎兵衛の銛先はぴたりと静止して微動だにしなかったのである。


 数日で船酔いを克服した典膳は、太い木をなたや小刀で削り径が一尺ほどの球を作った。それに畳くらいの四角い丈夫な板を置き、その上に銛をもって立つ。ぐらぐらと揺れて立つこともできなかったが、毎日朝晩数刻ずつ球に乗る修行をするうちに、なんとか立ち続けることができるようになった。だが、銛先を止めることはできなかった。

 そのころ、大きく揺れる船の上でもバランスを崩さずに立てるようになった典膳は、銛で魚を突くようになったが、まったく魚を突くことはできなかった。


「五郎兵衛殿、なんとか立てるようになったが全然だめじゃ」

「典膳さあ、まだ銛先が揺れておろうが、それがぴたりと止まるようにならにゃ狙いをつけることはできん。それには意識ができなければならん」

「意識とは」

「つまりじゃな、目標とする魚と銛先とがピンと張った糸で結ばれているような気分じゃよ。どんなに揺れても、その糸はピンと張ったまま微動だにしちゃいかんのう」

「そこに到達するにはどのくらいかかるじゃろうか?」

「さあ、人それぞれじゃが、漁師なら二年から三年はかかるが、あんたなら早いかものう。信じられんほどの上達じゃからのう」


 さらに球の上での修練を続けて銛先が動かなくなると、揺れる船上でも銛先がピタリと止まるようになった。だが、カジキにもイルカにも典膳の銛は届かなかった。

 五郎兵衛のもとで修行を始めて二十日がたっていた。

「典膳さあ。あんたもだいぶ腰が練れてきたようじゃな。銛先が揺れる船の上でまったく動かんようにはなった。じゃが、それだけではだめじゃろう。目付けを消すことを覚えんとなあ」

「目付けを消す?」

「ああ、カジキや海豚いるかと話をしながら姿を消すんじゃよ。ええかあ、カジキとの距離や方向が判ったとしてじゃな、つまり狙いが定まったちゅう訳じゃが、そん狙いとは太陽の位置や海の温度、それに雲の色や風の方向などでいつも変わるんじゃ。ツキンボの名人は、その狙いの変化を毎日の経験で常に修正しとる。それが話をするちゅうことじゃ」

「五郎兵衛殿、それがツキンボの極意かのう?」

「いや、そこが始まりじゃよ。ツキンボの極意は、みて、みて、みつづける事に尽きる。カジキの気持ちがわかるようになるまでのう」


 典膳は鎌倉の中条流道場でのとんびを見続けた修行と、師匠から"見ると観る"の差を教えられたことを思い出した。同じであった。すんぶん狂い無く同じであった。極意は観ることに尽きるのであろうか。だが、五郎兵衛が続けたのは意外なことだった。

「ええか、お前様がカジキを観れるならば、カジキもお前様のことが観れるんじゃ。つまり、どんだけ観たとしても、そんだけじゃ逃げられちまう。目付けを消すちゅうのはその先じゃよ。お前様は観てるのに、お前様の姿は観えないようにするちゅうことじゃ。そうすれば、カジキも海豚も鯨も、いや、どんなカジキもお前様の銛から逃げることはできんだろう」


 典膳が五郎兵衛に弟子入りして修行を始めて四十日が過ぎ、季節は秋になっていた。そのころ典膳の銛は狙ったカジキを外すのが稀なほどになっていた。名人五郎兵衛の域には届かないが、その短期間での上達には五郎兵衛も信じられないとの様子であった。その夜、典膳は暇乞いを申し出た。

「五郎兵衛殿、ワシは明朝にはここを発とうと思うています。いろいろと教えていただき感謝のしようもありません。短い修行でしたが、何かワシに足りんものがあれば教えてください」

「あんたに教えることはもはやねえさ。足りねえとこか、うーん、祈るっちゅうことかのう。狙いを付けたカジキを祈ってやる気持ちじゃよ」


 典膳は朝日と共に五郎兵衛のもとを発った。そして、神子上村の弥助の小屋に寄って太刀を受け取ると、神子上本家に立ち寄ることも無く足早に村を立ち去った。満月まであと三日であった。



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