▼ 小太刀桔梗の物語 ▼
▼ 小太刀桔梗の物語 ▼
川中島の合戦は知っておろう。今から三十年ほど前の永禄四年(一五六一年)に行われた合戦じゃが、と一刀斎が典膳に話はじめたのは伊香保温泉で修行をはじめてしばらくたったころだった。
永禄四年に行われた第四回川中島合戦は、戦国武将中もっとも戦闘力に長けていた上杉謙信と、戦国時代にもっとも戦闘力の高い武田騎馬軍団を率いていた武田信玄の一騎打ちとして有名である。二人はそれまでに三回川中島で対峙したが小競り合い程度で終わっていた。だが、この第四回に関しては両者とも雌雄を決する覚悟であったと言われている。
信玄は部隊を二つにわけて、その一部隊で山の上[妻女山]に陣取る上杉軍に対して、裏山より夜中に急襲し、あわてて山を降りて来る上杉軍を平地にて待ち構えて挟撃しようとした。これが成功すれば上杉軍は壊滅したであろう。だが、毘沙門天の加護を受けた謙信はその日の夕刻に、武田陣に立ちのぼる炊飯の煙をみて夜半に襲撃があることを見抜いていた。
謙信は山上にかがり火を焚き、旗を乱立させて多数の兵が陣取るように見せかけた後に少数の部隊を残し、本隊は夜陰にまぎれて山を下り、八幡原と呼ばれる平原で信玄本隊を待ち伏せした。
後の頼山陽が読んだ 「鞭声 粛々 夜 河を渡る」 のくだりである。
鞭声粛々 夜 河を渡る
暁に見る 千兵の大牙を擁するを
遺恨十年 一剣を磨き
流星光底 長蛇を逸す
八幡原の朝霧が晴れたときに、地獄を予感したのは信玄であった。眼前には時の声を上げながら猛烈に突進してくる上杉軍があった。謙信は自らの防御を無視した完全なる攻撃体形で突っ込んできた。信玄は完全に後手に回り、全軍に完全なる防御体形をとらせる。だが、信玄の弟である武田信繁をはじめ有力な武将が次々と討たれていった。
上杉軍は信玄の旗本までわずかのところまで攻め入ったが、信玄は鉄製の軍配を手にして微動だにしない。
信玄絶対絶命のその時、やっとのことで妻女山を突破した、武田別働隊が姿を現した。ついに、信玄が描いていた挟撃が実現したのである。
隊列が崩れ、被害が増大していく上杉軍、謙信は踏みとどまって戦えば全滅すると判断し、あと一息までに追いつめた信玄を前に全軍に退却命令を出した。
そして歴史的な一瞬がやってくる。なんと、退却しようと馬を進めた謙信の前に、信玄がいたのである。馬にまたがりスルスルと信玄に近づいた謙信は、名刀、小豆長光を振り上げ床机に座る信玄に三太刀にわたって斬りつけるが、信玄は鉄軍配をもってこれを凌いだという。異変に気づいた信玄の供回りが駆けつけると、謙信は立ち去ったという。まさに『遺恨十年 一剣を磨き 流星光底 長蛇を逸す』であった。
「実はのう典膳、謙信公が斬りつけた刀は二振りあったんじゃ。最初に謙信公が手にしていたのは刃渡り三尺を越える備前長光であったらしいが、最初の一太刀目を鉄軍配で受けられると折れたそうじゃ。それで腰の小豆長光を抜いて二の太刀、三の太刀を見舞ったんじゃ」
「小豆長光? ですか」
「うむ……、謙信公は備前刀である備前長船長光を好んでいたらしいのう。そん中で妖刀「小豆長光」の話は有名じゃ……。ある日のこと、謙信公の家臣がみすぼらしい身なりの男を見かけたらしい。その男は小豆袋を背負っており、腰には見るも無惨なボロボロの太刀を挿していたとのことじゃった。割れた鞘からは刀の先が剥き出しになっておったそうじゃが、背負っている小豆袋にも穴が空いており、そこから小豆がこぼれていたらしい。そして、見ているとこぼれた小豆は剥き出しの刀の刃にあたり、どれもこれも真っ二つに切れていたという。その様子を見ていた家臣は驚くと、男から刀を買いあげて謙信公に献上し、それから、謙信公は「小豆長光」と愛称を付けた、その刀を腰に挿すようになったそうじゃ」
「ほう、でも、それでも信玄公は切れなかったんですね」
「そうじゃ。じゃが、今、儂が手にしている小太刀『「桔梗』こそが川中島の怨念を吸い込んだ妖刀なんじゃ」
「桔梗が?」
「桔梗は謙信公が斬りつけて折れた長光を小太刀に打ち直したものなんじゃ」
その小太刀は紆余曲折を経て一刀斎の元へたどり着いたのである。簡単に言えば、川中島の戦場で折れた刀を拾った信玄の重臣である小幡信貞は、信玄にそれを小太刀に打ち直したいと嘆願した。信玄は自分を斬りつけた太刀を打ち直すとは不届き千万であると怒ったが、信貞は次のように言上したのである。
この刀は、世の全ての刀が信玄公を斬れないことを証明し、そして自らは折れ縮まって自らの不遜を恥じている。これを残すことで、信玄公の偉大さを語り継ぐことができると。納得した信玄はそれを小太刀にして所有することを信貞に許した。数年後に、それは上野小幡家の重臣であったお美乃の叔父の手に渡ったのだが、それは、甲斐小幡家と上野小幡家は親戚筋であったがためである。お美乃が賊に拉致されて連れ去られたときに、その小太刀を持っていたのはお美乃だったのである。
お美乃は小太刀の素性を知っていたから、盗賊の首領がお美乃の躯と小太刀を奪おうとしたときに、小太刀は自分の父が持たせたものだから取り上げないで欲しいと懇願して許可されたのであった。小太刀は造りが地味であったし、盗賊の頭は、そんな小太刀一本を小娘が持っていたところで何の役にも立つまいと考えたのである。
お美乃は、賊の指示で、一刀斎を酒に酔わせた後で、彼の所有する大刀二振りと小太刀一振りを盗賊に渡すことになる。だが、蚊帳の中で眠る一刀斎に川中島由来の小太刀を握らせたのはお美乃であった。お美乃は酒の酌をしながら話をし、酒を勧めていた相手が腕と名のある武芸者であることを知って、彼に運命を託したのであった。盗賊たちはまさか一刀斎が小太刀を持っているとは夢にも思わずに切り掛かったのだ。
「謙信公の備前長光を小太刀にしたのが、この桔梗なんじゃ。よいか典膳、一刀流の神髄を引き継ぐ者だけが、この小太刀桔梗にたどり着くんじゃ。この話は善鬼にはしとらんから、そのこともよう覚えておけ」
典膳には一刀斎の話の真意がよく理解できていた。
なんとしても、善鬼の技を凌駕せねばならない、そして小太刀桔梗を手にしなければ、その時にはもう一つの、安房に残してきた桔梗も手に入るやもしれぬ、そんなことが頭をかすめる。だが、どうすればいいのだろうか? 考えれば考えるほど典膳の悩みは深まっていった。




