▼ お美乃 ▼
▼ お美乃 ▼
水月がラッパやスッパを相手に人斬りの修行を始めたころ、すでに鎌倉を出立して半年以上が経っていた一刀斎と善鬼、典膳の三人は東山道[後の中仙道]の高崎宿あたりにいた。一刀斎がその地で知合いの剣術道場に女を預けていたのである。女の名は お美乃 といった。歳は二十七で色白のとても美しい女だった。
お美乃が一刀斎の姪という触れ込みでなければ、誰かがとっくに手込めにしていたであろう。だが、一刀斎の縁者ということで誰も手を付けなかった。一刀斎はお美乃を預けると毎年この地を訪れて、約半月ほど逗留した。その際にはよく二人連れで上州の温泉などに行くので、お美乃は一刀斎の女であろうとの噂がたっていた。
お美乃は上野の戦国武将である安中氏に仕えた家中の娘だった。その地は戦国時代初期には関東守護職の上杉氏の領地だったのが、戦国の梟雄たち、つまり北条氏康や武田信玄が上野に野心を延ばした結果、北条領になったり武田領になった。また上杉謙信がこの地に出陣するに至り、家中は分裂して争うという過酷な運命を辿ったのである。
お美乃の父親は武田方に付き、武田勝頼の出陣に従い安中を出立したのだが、勝頼滅亡の後に再び戻ることはなかった。その後お美乃が十九の時に、代々仕えていた奉公人と寺参りに行った帰りに、盗賊集団にさらわれたのである。奉公人は惨殺され、お美乃も盗賊たちの慰み者にされたあげくに女郎宿に売りとばされるところだったが、お美乃に一目惚れした盗賊の頭によって、頭の女にされたのであった。その盗賊集団こそが、伊藤一刀斎が桔梗ヶ原で斬り捨てた奴らだった。
盗賊どもは表向きは三国街道の渋川宿で旅籠を経営し、そこでお美乃を女中として働かせた。お美乃の仕事は、金を持っていそうな客に酒を飲ませて酔わせたり、武士や武芸者ならば槍や刀などの得物を酔った隙に隠すことであった。その後で盗賊どもが襲いかかるのである。
その旅籠に泊まった武芸者が高名な伊藤一刀斎であるということを、盗賊たちは誰も知らなかった。元々酒好きだった一刀斎は、お美乃に勧められるがままに酒を飲み、酔ってしまったのである。
一刀斎は賊を全員斬り捨てた後でお美乃の命を助けた。彼もお美乃の美しさに惚れてしまっていたのだ。その後、お美乃を連れて高崎まで来た一刀斎は、その地の中条流道場にお美乃を預けて修行を続けたが、年に一度はこの地を訪ねるとお美乃と約束していた。典膳がこの地を訪れる七年前のことである。
「おい典膳、師匠は高崎宿に着いたら、俺たちにはしばらく勝手に修行してこいと言うだろう。いつものことさ」
鎌倉を発って数ヶ月、その間に武蔵から上野に向かう街道で、ラッパやスッパの集団に襲撃されること三度、いずれも三人で切り伏せてきたのだが、その間に典膳と善鬼の間にも微かな信頼関係が芽生えていた。数十人のラッパに襲われ、お互いに死地に陥るような危機を助け・助けられたことで、そのような感情が生まれるのは当然だったのかもしれない。少しずつだが会話が生まれ、善鬼は典膳と呼び、典膳は善鬼兄と呼ぶようになった。
「善鬼兄、どういうことじゃろか?」
「ああ、女がいるらしいな、師匠に。だから、女に逢っている間は俺たち弟子が邪魔になるっちゅうことだろうが」
一刀斎は道を外れて杉林の中で用をたしていた。
「それはいいとして。善鬼兄はどこで修行をするんで」
「そんなことは教えられん……。それに、お前と一緒に行くというのも有り得んことだ。もしかすると、どこぞでお前を斬ってしまうかもしれんからな。まあ、俺もお前もどこかで好きなように修行すればいいだけさ。どうせ、集まる日時と刻限は決められておるからのう」
善鬼の言う通りになった。一刀斎は高崎宿に着く一里前の塚で、次の満月まで、勝手に修行してこいと言ったのである。集合は次の満月の翌日で、卯の下刻に同じ一里塚の前である。一刀斎の指示を聞くや否や善鬼は疾風のように、元来た武蔵方面に走り去った。
典膳は一刀斎が去った後に一里塚の前で考え込んだ。どうしたら良いのかいい案が浮かばなかったのである。だが、しばらくすると、一刀斎の愛した女を一目見てみたいとの欲望が頭をもたげてきた。遠目から見れば気づかれんじゃろう。そうだ、ワシも高崎へ向かおう。行けば、その剣術道場も判るじゃろう。そうして、典膳も高崎に向かった。
道場は宿場のはずれに一カ所しかなかった。遠巻きにして様子をうかがっていると、その日の午後に一刀斎と連れの女が旅装支度で出立した。典膳は距離をかなりあけて付いてゆく。二人とも編み笠をかぶっており表情はうかがえない。三国街道を進むと、行く先は高崎宿からさほど遠くない伊香保温泉の方向であった。伊香保に登る山道を行くと、歩いて来た街道の反対側に広大な裾を持つ赤城山が見渡せる。女の姿を見失わないように付いて行く。
「典膳、お前何をしている」
と巨大な赤松の陰から眼光鋭く一刀斎が歩みでた。
「はっ、申し訳ありません。先生がどちらに行かれるのか知りたくて」
典膳は背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。もしかすると、斬られるかもしれない。
「ワシが女を連れているのを知っているな?」
「はい、昨夜泊まられた道場から一緒に出られるのを見ておりました」
「そうか。それで、お前は、善鬼から何かを聞いたのだな?」
「はあ、善鬼兄が先生は女連れでどこかに向かうだろうと」
「なんでもよう知っとるようだのう、あの男。まあいいだろう。どうやらこの近くには善鬼の気配はないようじゃ」
典膳は一刀斎の必殺の気が減少していくのを感じた。
「ワシ等は伊香保温泉でしばらく湯治をする。お前もどこかこの近くに宿を取れ。それから、明日から毎日一刀流必殺の奥義について稽古をつけてやるから、毎日、辰の上刻に木刀を持ってこの場所に来い」
一刀斎はそう告げると足早に立ち去った。典膳には安堵の気持ちと同時に驚きの気持ちや疑問が湧いていた。いままで、一刀斎は木刀を持っての型稽古しか相手をしてくれなかったが、いったい必殺の奥義とは何なのか? 善鬼はすでにその技を知っているのだろうか?
一刀斎と典膳は翌日同じ場所で落ち合うと、山道を外れた広い場所に移る。稽古の前に一刀斎は典膳に告げた。
「典膳、ワシはもうしばらくしたら隠遁しようと思うとる。昨日連れとった女はお美乃というが、ワシはあいつと暮らすつもりじゃ。それで、ワシの一刀流は善鬼かお前が継ぐことになるだろう」
「ですが、先生はまだお若いし、もっといろいろと教えていただきたいのです」
「ワシも真剣で戦うこと三十与度、木刀での立会いを入れれば芸者を七十余名は殺してきたが、未だ遅れをとったことはない。じゃが、もうこれ以上の殺戮には意味がない。お前等のどちらかが跡をつげば本望じゃ」
「はい、お申し付けを肝に命じてますます精進いたします」
「それでよい……。が、しかし、ワシの跡を継ぐものは一人じゃ。お前、善鬼に勝てようか?」
「わかりません。勝負はやってみんと、でも、今は善鬼兄のほうが強いと感じています」
「たぶん、お前の感じた通りじゃろう。それで湯治が終わるまでお前に秘技『雷光』を授けるゆえ、ワシに死ぬ気でかかってこい」
「先生、善鬼兄はその技を知っているので?」
「それを知ってどうする、典膳」
一刀斎の目付きが三角形のように鋭くなり、そして冷たくなる。
「いいか、ここでの修行のことは誰にも言ってはならん。それに、この技を得たとて、善鬼の下段ツバメ返しを破れるという訳でもないからのう」
それから、連日同じ時間に二刻ほど二人は稽古した。
「よいか。一刀流の極意は突きにある。必殺の気合いで突き入れれば、それより速い技は存在しない。だが、相手の間合い内に飛び込む俊敏さと勇気、何よりも相手の気の流れを観て一瞬の間を決断できるかどうかが全てじゃ」
典膳は青眼から猛烈な突きを繰り出した。だが、いつも一刀斎はそれを外すと典膳の胴や腕を打ち込んだ。
「よいか、突きの速さは十分あるが、お前はまだ観る力が弱い。だから、外される。いいか。突きは外されれば完全に終わりになる。つまり死だ。技術的にはもう教えることはない。あとは、その日までに相手の気の流れを観る力を増すことじゃ」
「はっ、しかと心得ました」
「一ついいことを教えてやろう。善鬼は桑名というところでワシの弟子になるまで銛打ちの漁師をしていたということじゃ。ワシもそのとき銛打ちの達人とやらと対峙したが、そいつはワシの全てを見切ってたようじゃった。よいか、肝に銘じておけ、善鬼は、相手の気の流れを観る力が恐ろしく強い、それ以上の力を得ねば勝てはせぬぞ」
二人の修行は終わった。あと三日で三人が集合する約束の満月になるという日に、一刀斎は初めて典膳にお美乃を引き合わせた。
「典膳、武芸者とは明日の命も判らんものじゃが、もしも、ワシが屍になったならば、お美乃の道場を訪ねて、それを告げてやってほしい」
一刀斎は典膳に向かいそう言うとお美乃の方へ向きなおり
「お美乃、もしお前がワシが死んだことを聞いたならば、お前は道場を出て自由にしろ。もっとも、どこへも行くあてが無ければ、道場の下働きとしていつまでもいられるように言っておいてやるが」
「弥五郎さま、わたしはいつまでもあなた様と一緒にいたいのです。わたしを無間地獄から救ってくれたご恩を忘れたことはありません。典膳どの、先生のお供をして修行を続けられたら、また高崎の道場にお越しください。わたしはお二人が来るのをずっと待っていますからね」
お美乃は典膳に向かって微笑んだ。
典膳は二人と別れると、一足先に待ち合わせの一里塚に向かった。




