▼ 風魔の地 ▼
▼ 風魔の地 ▼
松軒と水月は清澄寺に一ヶ月ほど滞在し、日がな剣術の猛稽古を行った。あの日、猟師の喜八は清澄寺で薙刀や管槍を持つ僧兵等といっしょに松軒の帰りを待っていた。まもなく山裾に日が落ちようかという時に帰ってきた二人を見て、喜八は「あいつが猿神じゃ、松軒先生を人質に取って来るとはなんちゅう獣じゃ。さあ、皆の衆、あの獣を討ち果たしてくだされ」と叫んでいた。
あれから一月がたち、出立する日のこと、
「いや、すまんかったです。もう早とちりしてしもうて、水月さんが松軒先生の弟子になられたとは知らんかったんで」 喜八は頭を掻きながら、笑みをうかべて水月に言った。
「いや、喜八さん、山の衆やあんたの猟師仲間にも謝っといてくだせえ。長い間山に籠って皆さんを不安にしてしまったかもしれんからのう。俺はこれから松軒先生と武者修行の旅に出る。再びこの地を踏めるかどうかは解らんけど、こん山に世話になったことは決して忘れんから」
二人は寺を出立した。水月は新しい大小を佩いていた。彼が神子上村の弥助の小屋から盗んだ刀は手入れも悪く錆が深くなっていたので、清澄寺の住職が、寺に寄贈された大小の中から太刀と小太刀を一振ずつくれたのである。太刀は刀身二尺七寸の無銘相州物で鋭い切れ味を有しており、水月の身長と釣り合いの取れた物であった。
荷物行李を背負った二人は安房と上総のそれぞれに向かう分岐に出た。右に行けば峠をこえて小櫃川に出る。それは典膳と共に三石山に向かった道で、ずっと行けば小櫃川の河口である木更津に出ると言われていた。そこからは内海を渡って三浦に行く船があるはずだと住職から聞かされていた。左は水月の故郷安房に通じている。その分岐で、水月は神子上村に短時間でいいから寄りたい旨を松軒に申し出た。
「水月、お前、村に待っている女子がいるようじゃが、女子のことは当分忘れねばならん。武芸者の命は明日をもしれん、もし、女子に未練があるのならば即座に修行を打ち切り村へ帰れ」
「松軒先生、俺は女子に未練があるわけではないんじゃ。ただ、二年前に夫婦になりたいと言ったのは確かなんで、そのけじめを付けんといかんと思って。これからの修行に曇りが出んようにしたいと思ったんじゃ」
「ここからお前の村までどの位の距離じゃ?」
「二〜三里じゃから、半日でここに戻れると思う」
「ならば、ここで半日待つ。行ってこい」
水月が松軒と分かれたのは辰の下刻であったが、巳の下刻には神子上村についていた。
道中、水月は桔梗に会ったらなんと言おうかと、それをずっと考えていた。すごい師匠に出会ったから、あと数年剣術修行の旅をしたい、それからお前を向かえに行くからぜったいに待っていてほしい。いやいや、まずは行方知れずでいたことを詫びねばなるまい。山籠りの修行をしていたと言えば許してくれるだろうか? そんなことを考えながら歩いていたが、村が近づくにつれて、桔梗は今も村に居るんじゃろうか? もしかしたら誰ぞに嫁いだ、なんてこともあるかも、水月の不安は大きくなっていった。
あとわずかで神子上村の本家の屋敷に着くという時に、水月は脇道から出てきた人物に呼び止められた。
「お主、もしや水月、神子上水月ではないか?」
「あっ、これは、本家の兵部様ではないですか。お懐かしい。俺も村に帰るのは一年半くらいになりますけえのう」
「水月、お前は三石山で崖から落ちて死んだと聞いておったが」
「それが、運良く水の深みに落ちまして助かりました。それから山に籠って修行しておりまして帰りが遅うなりました」
「山籠りか、それにしては身なりも小奇麗だし旅支度のように見えるが」
「はあ、今は雲林院松軒先生という武芸者の弟子になりまして、これから諸国を巡る武者修行に出るところです。それで、桔梗に会うていこうと思いまして、兵部様、桔梗は元気にしてますか?」
「そのことよ。いいか、村ではお前は死んだことになっておる。それから、言い辛い事じゃが……、お前の家はもう村にはない。お前の父、貴久殿は昨年の小田原出陣のさいに敵との小競り合いで亡くなった。鉄砲に当たったんじゃ。それで、母殿はお前の姉さんの嫁ぎ先、小湊を頼って引越して行った。じゃから、武者修行でもなんでも好きなようにすればよいから、村には戻らずに今すぐに引き返せ。そして二度と村には戻らんようにな」
「なっ、なぜですか? 俺は生きて戻ったんです。親父殿が亡くなったのも家がのうなったのも知らんかったし、それを聞いてとても悲しいです。でも、村には知り人はいるし、桔梗だって俺を心配しているはずじゃないんですか」
「桔梗、桔梗と気安く呼ぶと許さんぞ。お前のような分家の又分家の分際で、本家の娘を気安く呼ぶな。いいか、妹は、桔梗はお前が死んだと思うておる。そして、まもなく嫁ぎ先も決まり祝い事があるやもしれんのじゃ。お前はもう村には近寄るな」
「分かりました。もう村に帰れんでもいいですから、一目、桔梗様に会わせていただけんでしょうか?」
「くどいぞ、水月。それ以上言うならば、お前をここで斬る」
桔梗の兄、神子上兵部は刀に反りを打たせて身構える。彼は村一番の古伊勢神流の達人である。たぶん、山に籠る前であれば水月はかなわなかったに違いない、しかし、水月は、今ここで切り合えば自分が勝つと思っていた。
「やめてくれ、兵部兄い。俺は帰るから。もう先には行かんと約束するから、どうか刀を抜かんでください」
抜刀すれば水月も抜かざるを得ない。だが、兵部は水月を睨みつけて構えを解かない。
「兵部兄い、一つだけ、一つだけ教えてほしいんじゃ。典膳は、典膳はどうなったんじゃ? あいつは村へ帰ってきたんじゃろか?」
「典膳? 伊藤一刀斎の弟子になった典膳か? あいつも村を出て行方知れずだが、死んだという噂も知らせもないけえ、たぶん生きとるんじゃろう……。聞かれたついでに教えてやるが、儂の父はのう、お前じゃなくて典膳を桔梗の婿に考えていたんじゃ。もっとも奴が戻らなければ他の相手が婿になろうがな。いいか、判ったら帰れ。貴様には用はない、二度とこの村に帰ってくるな」
「兵部兄い、俺は村には戻らんと思う。武者修行で明日の命も知れんから、じゃが、俺が生きていたことだけは桔梗様に知らせてほしい。それだけが、望みじゃから。必ず強い武芸者になると伝えてくだせえ」
水月はきびすを返すと、元来た道を走り去った。
兵部は桔梗への伝言どころか、水月と出会ったことさえ誰にも話さなかった。
水月が神子上村を後にしてから半月がたった。
あの日、松軒と水月は小櫃川を河口まで下り木更津にでると、翌日に船を雇い内海を渡り今の横浜のあたりに着いた。通常は三浦に着き、そこから鎌倉街道で鎌倉に出て、さらに鎌倉街道を下り東海道に出れば京へも江戸へも向かうことができる。また東海道を横切ってゆけば武蔵野丘陵を越えて東北や上州に向かうこともできた。つまり鎌倉を中心にして放射状に出ている道を鎌倉街道と呼んだのである。当然わかりづらいので上道とか中道、下道などと呼び名が分れている。
松軒と水月は鎌倉下道を保土ヶ谷村の方向に進み、村外れの古い神社に数日寝泊まりした。二人は、保土ヶ谷宿から鎌倉中道を使い武蔵の国に入ろうと考えていた。そのころは秀吉の関東平定が終わった後で、五代続いた関東の雄、北条氏が滅亡したところであった。相模や武蔵の国では、北条の隠密や破壊活動をしていた風魔一族やその手下ども、そして大名の規制がきかなくなったラッパ [乱波] やスッパ [素波] などが、村々の焼き討ちから強奪、略奪、強姦、人さらいまでやる無法地帯と化していた。もちろん、人殺しなどは普通のことである。
「水月、我らは無法の地に踏み込んだからには、自らの剣をふるい死地を脱出せにゃあならん。まあ、無法者相手に人を斬る修行をするのが目的でこの地に来たのじゃからな」
神社の境内を歩きながら松軒が言うと、水月は武者震いをした。もちろん戦国の世で戦場に出たことも数回あるが、いずれも甲冑に身を守られながら刀を振り回した記憶しかない。誰かに斬りつけた気もするが、相手を仕留めたという記憶もないし、ただ身を守るのに懸命だっただけである。だが、これからは身を守るのは自らが振るう剣のみなのだ。松軒は続けた。
「よいか。ラッパやスッパは有りとあらゆる武器を使う。刀はもちろんのこと管槍、 薙刀、 手裏剣、 棒に鎖鎌だ。それに、やっかいなのは弓だ。小型の弓でも威力があるし、距離が近ければよけることも困難になる。だから、本当は目立たない夜に移動するのがよいのだが、盗賊共を試し斬りにするには目立たねばならんから、午後から日暮れにかけて移動することにする」
その日二人は午後になってから川沿いの鎌倉道を保土ヶ谷村へと進む、そこは結構な戸数のある村で、すでに宿場の趣を見せていた。足早に村を過ぎると、街道は分岐した。左は鎌倉に向かい、右は武蔵の奥へと続いている。二人は躊躇せずに右へと道をとる。やがて一里ほど行くと広い湿地帯が前方に現われた。
「水月、どうやら付けられているようだな。人数は分からんがたぶん数名じゃろう。よいか、湿地は視通しがよく、先に踏み込んだ者には足場が悪いから、後ろから飛び道具を使われると不利になる。だから、そこの茂みに身を潜めて襲撃する。よいな、そこで左右に分かれるぞ」
松軒と水月は湿地の手前で、街道の左右に分かれて木々の陰に身を潜める。荷物を置いた二人は共に抜刀していた。水月は二尺七寸の刀を手に緊張していた。本当に斬れるのだろうか? 逆に自分が斬られて死ぬのではないか? 喉がカラカラに乾き、刀を持つ手が小刻みに震え、心臓が胸を突き破りそうなほど大きく波打っている。四名だ。緊張の中で水月は人数を読み取っていた。
「おい、どこへ行った? 奴らの姿が見えねえぞ」
「隠れたか? 気付かれたな。得物を取って身構えて行け」
賊の声が聞こえる。長い太刀が二人、槍が一人に棒が一人か。よし、どこで死んでもかまわんのう……、覚悟を決めると手の震えは収まっていた。桔梗、俺はやるぜ、俺の姿をよう見ておけよ。水月の全身は総毛立ったがそれは恐怖ではなく、狩りをする獣の準備としてであった。
「貴様等、俺たちを付けて来たな」
そう叫びながら水月は四人の前に踊り出ると、刀を上段に振りかぶり、目前の男に、槍を持った男に襲いかかった。相手は槍を突き出そうとしたが、水月には動作が遅く見えた。槍先を余裕でかわすと、そのまま脳天に刀を打ち込んだ。ドスっというかグシャっというか、聞いたことのない音と共に、水月の肩から腕にかけて鈍い震動が走る。頭を割られて脳漿と血をばらまいた男はグラリと前に倒れた。人を斬るのはこんなにたやすいのか? 水月は意外な感触に戸惑ったが油断せずに、刀を構えた二人に対して自らの刀を青眼につけた。
「畜生、そんなところに隠れてたか」
「野郎、ふざけたまねをしやがって……」
二人は路の両側に開きながら言葉を投げた。その後ろでもう一人の男が棒を振り上げて身構える。日も西に傾きかけて木々の繁る道は薄暗かったが、二人の刀の鈍い光が輝いていた。一人が上段に構え直すが、水月には観えていた。上段のこいつが振り下ろして俺の体勢が乱れたところに、横のこいつが横薙か突きを入れる気じゃろう。
後ろの男が棒を片手に懐から何かを取り出した瞬間、ギャーという凄まじい叫びが上がった。林から飛び出した松軒が棒の男を一刀の元に斬り伏せたのである。その声につられたかのように水月の前の男が上段から剣を打ち下ろした。だが、刀先の動きを見切った水月には一歩退いてかわす余裕が十分にあった。刃筋を外した水月は瞬時に間合いに入ると横殴りに剣を払う。首が斬れる鈍い音と同時にザザーと血柱が吹き上がった。そして、飛んだ首が地に転がる前に、もう一人を袈裟懸けに斬り下げていた。真っ赤な肉と白い肋骨が数本見える。ほんの一瞬で二人を斬り捨てていた。
「水月。ようやったな」
絶命した四人を前に松軒が言う。
「はい、松軒先生。人を斬るのは思うたよりもたやすいことでした。じゃが、こいつらの腕がたいしたことなかったのかも知れんですが」
「まずは経験を積むことじゃ。それに、こいつ等は手慣れた悪党のようじゃから、それほど腕がないというわけでもなかろう。ほら、その男を見てみろ」
松軒は自分が斬り捨てた男が右手に持っている物を刀で指し示す。それは、コブシ大の袋であった。
「毒袋だ。スッパの使う武器だが、とても危険なものだ。投げつけられればお前は斬られたやもしれぬ」
「これは?」
「良くは知らんが、牛か馬の膀胱に、毒虫や毒草から取った毒や唐辛子の粉などを混ぜたものを詰めてあるという話を聞いた事がある。かつて、かなり腕の立つ剣客が、こいつを食らって切り伏せられたところを見たことがある。スッパの武器にはよう注意せんといかん。間違いなくここは風魔の地じゃのう」
水月は初めて得た勝利が嬉しいのと同時に、これから身におこる困難を感じて心が寒々しくなるのを感じていた。




