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ト伝 vs 一刀斎  作者: 古河 渚
10/28

▼ 小櫃川 ▼

小櫃川おびつがわ


 三石山に行き、水月を探したい。桔梗が兄にその話をすると、神子上兵部は困ったような顔をした。何者かが弥助の小屋に侵入してから半年が経ち、暖かい新緑の季節も終わり初夏になっていた。もう兵部には妹の希望を抑えることはできなかった。


「桔梗。お前の気持ちはわかったから、俺と弥助と三人で行けるように父上には話してみる。したが、そんな女子(おなごの格好では行けんぞ。そもそも山は女人禁制じゃ。もし、女子おなごを山に入れたと知れたら、神子上は回りの村からつま弾きにされるどころか、悪けりゃ襲撃されるやもしれん。髪を切って顔をはいすみで汚して、木樵きこりや猟師のなりができるなら連れて行くが、どうじゃ」

 兵部はそう言えば桔梗が諦めるだろうと思っていた。最近とても女らしくなり、黒髪をとても大切にしていることを知っていたからだ。

「兄さま、それでよいのならば、今すぐにでも髪を切ります」

 兵部は狼狽ろうばいした。

「まあ、まて、そんなに急ぐでない。父上の許可を頂いてからじゃ。それまで、よくよく考えるようにのう」


 しかし桔梗の決意は変わらずに父の許可も降りたので、兵部と桔梗、それに道案内として弥助を入れて三人で三石山周辺の沢を目指す事になった。桔梗は肩までの長さに髪を切った。

 弥助と兵部で数日分の食料やいくつかの道具を持ち出立する。まず、海岸線を歩いて小湊こみなとまで行き、そこから清澄山を迂回する山道に入るのである。周辺の村からなるべく遠くに離れ、目立たないようにしたかったのだ。女連れなので速く歩くことはできないがしかたがない。小湊の海岸線から清澄山の脇を通る山道に入ったのだが、日暮れ前に弥助の猟師仲間の家で宿をとることになった。


 翌朝は日が昇るとすぐに出立した。二刻ほど歩いて峠を越えると、一休みして、そこからは清澄山を源流とする小櫃川沿いに下流に向かうことにする。天気もよく気持ちのいい日であった。


「兄さま、わたしは小櫃川おびつがわを見るのは初めてなの。兄さまは小櫃川の神話を知ってるかしら」

 桔梗は川を見つめながら兄に言う。

「俺は、この道は何度も通ったが……、そう、合戦のときにだ。最近では、数年前に久留里くるり城を取り囲んだときにも通ったなぁ。だが、この川に神話があることは聞いたことがない」

「弥助はどうかしら?」

「いえ、あっしみたいな猟師は、ここいらの山奥に分け入るこたーあっても、川の神話なんて聞いたこたぁねえですだ」

「昔、お婆様が聞かせてくれたことがあったのよ。神子上は伊勢の神職に繋がる由緒ある家柄じゃから、この安房から上総を流れる小櫃川は神の川じゃからよく覚えときなさいって。それは倭建命やまとたけるのお話なの。倭建命は伊勢の近くの尾張という国に妻となる姫をおいて東国遠征に向かったそうよ」

 弥助が興味深そうに聞き耳を立てる。

「そして、そこで出会った弟橘姫おとたちばなに惚れてしまい、彼は弟橘姫をつれて相模の三浦浜まで来たそうなの。それから船に乗って海を渡ろうとするのだけど、海神の怒りを買って、海は大荒れになってしまうのよ。船が波に飲み込まれそうなときに、海神の怒りを鎮めるために姫は自らを生け贄として捧げるべく、海に身を投げたと言われてるんですって」


 兵部も弥助も桔梗の話に聞き入っていた。

「姫が身を投げたおかげで、やがて海は静まり、倭建命やまとたけるたちは対岸に、つまり、この上総かずさの地に渡ることができたらしいの。それからしばらくして、この川の河口でもある木更津の浜に姫の亡骸なきがらが打ち上げられたらしいわ。村人たちは彼女の亡骸を小さなひつぎにおさめてまつろうとしたのよ。それで、その『小さな櫃』を造る木材を川の上流から切り出したと言われているらしいわ。その川が小櫃川おびつがわなのよ。だから、このあたりの源流地帯は、きっと姫の櫃を造る木を切り出した場所にちがいないわ。上総には他にも袖ヶ浦とか姫にまつわる地名が多いのよ。袖ヶ浦は、姫の着物の袖が流れ着いた場所だと言われてるんですって」


 桔梗は川の流れと周辺の深い森を見ながら、長い神話をまったく澱みなく話した。そして「私は姫様にお願いしてたの、私の水月を守ってくださいと」と、そこだけは周りに聞こえないくらいの小さな声でつぶやいた。


 それから小半刻歩くと、「兵部様、三石山に登る山道までもうすぐですが、典膳の話では、水月は三石に向かう沢を上っていって、そして斜面から落ちた言うんです、じゃとすると、ほら、あそこの川の分岐から三石に向かう沢に入れるんですが、どうしやしょうか」と弥助が言った。見ると木々が鬱蒼としている中から水が合流する沢が顔を覗かせている。

「弥助、儂らは三石山に上るのが目的じゃなく、水月の消息を確かめるのが狙いなのだ……、道案内は任せているから、お前がそこから行こうと言うのなら、その沢に入ってみよう」


 兵部の言葉もあって、その沢をさかのぼることになった。沢の入口でしばらく休息を取ると、三人は水量の少ない川を渡って沢に分け入った。それは、約一年前に典膳と水月が上っていった沢であった。

 水は澄んでいてそれほど冷たくはなかったが、女子おなごの桔梗を連れているので歩みは遅かった。三人は水月の痕跡を見つけようと周囲に気を配りながら歩いたが、そんな痕跡は微塵みじんもなかった。兵部はこれまで言葉にしたことはなかったが、もし桔梗から問われれば、あれから何度か嵐がきたのだから、もし水月の遺体や着物があったとしても、それはとっくに流されてしまっているに違いないと言うつもりであった。静かな水の流れる音とカジカの涼しげな声が聞こえてはいたが、それ以外には誰も声をあげることもなく上流に向って進んでいった。


 一刻半も歩いただろうか、太陽は天の真上に上がっていた。

「兵部様、桔梗様、この沢はどうやらここで終わりみたいですよ」

 弥助の残念そうな声があたりに響く。見ると、沢の前方には鬱蒼とした木々が垂直に立ちはだかったような巨大な壁がそびえている。

「あれは、三石山から元清澄山へと続いてる尾根じゃから、たぶん、この斜面を上って行けば三石山に着くのは間違えねえですよ。たぶん、典膳も水月もこの斜面か、この近くの斜面を上ったんでしょうな」

 と弥助は前方の壁や右手の急角度の斜面を指差しながら説明した。

「そして、水月はこの斜面から転落した」

 兵部は、まるで桔梗に聞かせるかのように言い切った。

「水月が生きている跡は、まだ何も見つからないのね」

 桔梗がポツリとつぶやいた。


 三人は、そこでしばらく休んでから沢を下ることにした。桔梗は沢から離れて傾斜のゆるいほうの山の中を歩き始める。このまま、何の手がかりも無いままで帰るのはいやだった。なんでもいい、何か水月の痕跡はないだろうか、祈るような気持ちで歩いたが何もなかった。疲れてしまい、大きな石に座り込んだ桔梗は、浜でよく口ずさんでいた子守唄を思い出すと小さな声で歌ってみる。雲が少ししかない初夏の日差しは、座っているだけでも肌着を汗ばませた。ふと見ると、足元にはとても美しい青いトカゲが陽だまりの中でじっとしていた。


 水月は桔梗が歌っているのを見るのがとても好きだった。あの童歌を何回くちずさんだのだろうか、気がつくと、足元にいた青いトカゲはいなくなっていた。見回すとトカゲは少しはなれた石の陰に入っていった。その石は周囲の石とは違い黒いことに気がついた。

「兄さま、弥助、ここよ、ここを見て」

 桔梗が下に向かって呼びかけると、二人はそろってやって来た。

「こ、これは、火を焚いた跡の様じゃのう」

「ちげえねえですよ。火の跡ですね」

「どのくらい前のものだ」

「そうですのう。そんなん古くはない。たぶん一月はいってねえでしょう」

 それを聞いて桔梗の顔はパッと赤みが差した。

「水月よ。水月が居たのよ」


 声も明るく張りがあった。兵部がそんな妹の明るい声を聞いたのは久しぶりだった。兵部の胸に一瞬の喜びが去来したが、すぐに暗澹たる気分に変わって行く。

「弥助」

「へい、何でしょうか?」

「俺と桔梗は少し大事な話がある。それで、沢を一町ほど下ったところで我らの帰りを待っていてほしいんじゃが」

 弥助は荷物を一つ担ぎ、兵部の荷物を手にして沢を下って行った。


「なあ、桔梗、お前には辛い話をせにゃあならん」

「兄さま、水月は生きているのよ。わたしにはこれ以上嬉しい話はないの。さあ、水月を探しましょう。きっと、この近くにいるはずだもの」

「お父上の言葉じゃ。神子上に帰り、再び髪が伸びた頃には父の決めた男と夫婦になるようにと」

「えっ、なんでなの、わたしは水月と一緒になるのよ。二人で約束したの……。だから、兄様は、そのためにここに連れてきてくれたんじゃないの?」

「それは、水月が五体満足で見つかった後の話になろう。父上は、お前が嫁に行く前に、気持ちの整理がつくのならば、行って見てこいと言われたんだ。お前には辛いかもしれんが、水月は見つからなかった」

「でも、あの火の跡は? 水月はきっとこの近くにいるのよ」

「水月かもしれんが、確認できん。この辺に入った猟師かもしれんしのう」

「でも、もしも……、もしも水月だったら?」

「なあ、桔梗。髪が元の長さに戻るには一年くらいはかかるだろう。父上は来年の夏までに水月が村に戻れば、そんときは二人の好きにしてよいと言われたんだ。だが、秋には父上の言う事を聞くようにとのことだ……。それから、お前が村では待てないと言うのならば、俺はここに残って、水月を探し出したうえで、あやつを斬らねばならんぞ」

「そう。父上の言葉も兄様の覚悟もよくわかったわ……、わたしは待てる。きっと水月は来年の夏までに戻るわ……。だから、伝え文を書いてもいいでしょう、ここに文を残したいの」

「それは……、まあ、いいだろう。では、文を書いて置いたならば、沢を降りることにするぞ」


 桔梗は持って来た紙に筆で文を書き、それを幾重にも油紙でまくと、火を焚いた痕跡のある石の上に置いた。それから、二人は弥助の待つ下流まで下り、村への帰途についた。

 運命とは過酷である。水月はそこから十町(約一キロ)ほど離れた場所に移動していたのである。彼は沢を下るのではなくて、山中での修行を続けながら山を越えて安房に戻ろうと考えていた。それでも、彼が魚を捕りにか、または深みでの飛び込み修行をしに以前の沢に行けば、その日でも会うことができたし、少なくとも桔梗の残した文には気付いたであろう。だが、水月は行かなかった。彼はもう二度とその沢には戻らなかった。


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