グルーシー
今年もジメジメとした季節がやって来た。
私は傘を持って、カタツムリが紫陽花の葉を伝っているのを見ていた。
無機質的だが、確かに生きている。その証拠に私に向かって威嚇するように頭を擡げていた。
私は茶色いジャケットを羽織っている。汗をかくが、寒いのは苦手なのだ。
しばらくして、私はカタツムリから視線を逸らして腰を上げた。
目を閉じて頭を掻き毟る。
最近、どうしても『結婚』という言葉で頭が一杯になる。同僚のビートもベックも独り身を止めてしまった。
「独り身はいいぞ」と強がっているが、できることなら綺麗で優しい奥さんが欲しかった。何度喧嘩したって構わない。一緒にいて楽しくて居心地いい奥さん…。夢の見過ぎだろうか。
私は視界を通り過ぎて行った女性が雨の中、傘を持たず一人でいるのに気付いた。年はおそらく25歳ぐらいだろう。私より少し歳上らしく落ち着いて見えた。
妖麗で艶やかな黒い長髪に怖いぐらいに整った顔。一挙一動が淑やかな雰囲気。
私は呆気に取られた。彼女に『恋』を覚えたのだ。
私は精一杯の勇気をかき集め、彼女に話しかけた。
「雨の中、傘を差さないと風邪引きますよ」
彼女はゆっくりした動作で私が見えていないように歩いていく。
「私の傘を貸します。寒くないですか。ジャケットも貸しましょうか」
彼女はようやく私をしっかりと見据えた。
「あなた、私が怖くないの?」
思わず口を滑らせる。
「怖いぐらい綺麗です」
彼女がクスクス笑い出した。
「バカな人。ナンパしたいの?」
「いえいえいえ、ナンパだなんて恐れ多い」
私の慌てように身長差のない彼女は優しく言った。
「いいのよ。あなたみたいな可愛い男の子からナンパなんて大歓迎なんだから」
私は少し不貞腐れた。
「男の子ではなく一人前の男です。試してみますか?」
「あら、襲う気?いいわよ。相合傘しながら、私、行き付けのバーに行きましょう」
強い力で彼女に抱き寄せられる。
私は抵抗しなかった。
バーで彼女が自分の名前を私の耳に囁いた。
『グルーシー』
私はゼクスと名乗る。
私達はチェスのテクニックの話やダーツの勝負をして自由に時間を潰した。
明日、職場で怒られるのは分かっていたが、夢のような時間だった。
バーで酔った後はホテルだ。
私達は乱れた。
「グルーシー」
彼女が切なげに囁く。
「…ゼクス」
一晩過ごすと眠りに就いた。
朝、起きてみると、2000ドルと『愛してる、ゼクス。私、人喰いなの。さよなら』という手紙を置いて彼女は行ってしまった。
私はグルーシーの匂いを記憶して、空虚な生活に戻った。
電車に乗り込む。
時々、グルーシーではないかと黒髪ロングの女を見つめる。
人喰いだろうが、私は良かった。
化け物でも愛してしまった。
彼女だけが良かった。他の女は考えられなかった。
雨が降り出す。舌打ちする男や文句を言う女がいる。
私は何となく初めて彼女と会った場所に行った。
傘を差さない黒髪ロングヘアの女が幽霊のように突っ立っていた。
「また会えると思ったわ」
グルーシーが滑らかに喋った。
私は傘を放り出して、グルーシーに抱き着き、言った。
「結婚して下さい」
グルーシーが私の頭を撫でる。
「いいわよ。その代わり、料理はあなたに任せるわ。私が作ったら無意識の内に人肉を入れちゃうから」
私は笑った。
「何だよ、それ。そんなことのために僕の前から姿を消したのですか?」
「そんなこと?結構重要よ。私の一族は人肉に慣れてるけど、他の人間がやったら病気にかかるのよ」
私はグルーシーの唇に乱暴に口付けた。
「病気が怖くてあなたといられない程、僕、よくできてませんよ」
みっともなく、私は泣いていた。
「好きです。愛してます。僕と結婚して下さい」
グルーシーが私の唇を奪い返す。そのまま、舌を噛みちぎろうとする。
私は怯えていなかった。それがグルーシーにも伝わっていた。
「私達、結婚しましょう」
「君、人肉食べなくて大丈夫かい?ここ最近、発作が起きているようだね」
私とグルーシーは結婚して5年経っていた。
「あなたと同じ体質に近付くために必要なプロセスなのよ。ってちょっと話聞いてる?」
私は新聞紙から顔を上げた。
「すまん、すまん。君のことが一番だよ」
グルーシーが私の腕を軽くピシャリと叩く。
「何口説いてるのよ。嬉しくなんかないんだから」
私は立ち上がって自分でも満足のいく笑みを浮かべた。
「そう言う君も可愛い」
グルーシーが「もういいわ」と言いつつ、仕事の準備を始める。
彼女の方が稼ぎがいいため、私は専業主夫をやっていた。
私は今日も幸せな気分で家事を熟す。
2人の洗濯物やディナーや買い物。することは山ほどある。
私はシチューを作りながら鼻歌を歌っていた。
ふと、玄関の空く音がする。鍵をかけ忘れていた。どうせグルーシーが忘れ物をしたのだろう。
「グルーシー、何を忘れ…」
言葉が途切れる。
目の前に知らない男がいた。
「金目の物は全部よこせ」
私は強盗に襲われているのだと理解するのに時間がかかった。
いきなり強盗はリビングの右端に置いてあったグルーシーのジュエリーボックスを漁る。その中には私が働いていた時に貯めた金で買った蝶々のピアスもあったため、必死に奪い返した。
「大人しくしてろ、殺すぞ」
強盗が脅してくる。
私は抵抗を繰り返した。
「僕から彼女への唯一のプレゼントなんです。後は何でもあげますから」
金髪の強盗は乱暴に私の頭を床に叩きつけた。
「命が惜しくないのか」
それでも抵抗する私を強盗が包丁で刺した。
グルーシーは帰って来ると直ぐ迎えに来る犬のような夫が迎えに来ないため、戸惑いつつ、家に上がった。
家の中滅茶苦茶だ。台風に遭ったかのようだ。
血の臭いが充満している。
無惨にも夫は死んでいた。
腹を引き裂かれて出血多量死のようだった。
手には夫からグルーシーへの初めてのプレゼントの蝶々のピアスが握られている。
グルーシーは泣きじゃくりながら、夫の肉を解剖し始めた。レインコートに返り血がへばりつく。
夫の肉のシチューを作るのにそう時間はかからなかった。
こんなに美味しい肉にありつくは初めてだった。