23匹目:私の好きなお菓子は何でしょう? 10
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20万字超えたってマ?
学園に入学するまで、ジェマは貴族を怖いものだと思っていた。それは「いつ理不尽な罰を受けるかわからないから」ではなくて、単純に住む世界が違うよくわからない生き物だったからだ。
ジェマは勉強が好きだ。何か成りたいものがあるからとか、家族に不自由ない暮らしをさせたいからなんて立派な理由はない。ただ知らないことを知ることが好きで、面白そうなことを前にすると好奇心が疼くからだった。
けれど平民が貴族のことを詳しく知る機会なんてそうそうない。
そもそも平民が王侯貴族の事情を詳しく知るというだけで不敬という考え方もあるくらいだ。それは極端だったとしても、直接貴族と関わらずに一生涯を過ごす平民なんていくらでもいる。むしろ貴族の事情に詳しい平民の方が少ないに違いない。
知らないものは怖い。知る機会がないものはさらに怖い。
好奇心は疼くけれど、好奇心だけで突っ込んでいくにはあまりにも世界が違うと知った。
優しくて温かいアシュダートン伯爵家ですらそう感じたのだということを、すっかり忘れていた自分の頭をぶん殴りたい衝動に駆られていた。
一切空気を読まず静かに微笑むアンジェリカに、初めて伯爵夫人たちにお叱りを受けたときの恐怖を思い出した。
「何あたしを無視してっん、むー!」
まだアンジェリカに噛みつこうとするリリアンには、もはや畏敬の念すら覚える。お前こそよくもあのアンジェリカを無視できるなと褒めたたえてやりたい気分である。
とうとう猿轡まで嚙まされたリリアンは、東屋の柱に縛り付けられていた。こちらへ向かってくる護衛も見えるので、もう完全にNGが出たらしい。ここで回収されれば、リリアンが貴族として生きていける芽はほとんど消えたと言っても過言ではない。当の本人はまだ精一杯に暴れようともがいているが、すぐに謝罪をしてアンジェリカに許されたとしても公爵家が許さないだろう。
何やら浮かれて調子に乗っているリリアンを放っておけば、遅かれ早かれこうなることは予想できていた。けれど実際にそうなる場面を目撃すると、なんだか感慨深いものがある。
「そろそろ、何かを選んでくださらないと困ってしまうわ」
わざとらしく悲しい顔をしたアンジェリカがちらりとリリアンの方へ視線を投げた。1番遠い席に着いているジェマにまで聞こえるため息を零して、ほんの少しだけ眉を顰める。
またリリアンが必死で暴れる音が響くが、アンジェリカはすぐにエリオットへ向き直った。
ジェマが知る限りでも、エリオットは何かを決断することなくここまで来た。こちらが親切に訊ねてやっているにも関わらず、ろくに答えずに誤魔化して逃げようとしてきた。今もはくはくと口を動かすだけで何も返せずにいる。拘束されたリリアンを振り返る余裕すらなく、呆然とアンジェリカを見上げる。
普段はすぐに助け舟を出すアンジェリカも、今日はただじっと待っているだけ。
その文句の付けどころのない微笑みと佇まいは、さすが完璧な淑女と言われるだけあって何の感情も読み取れない。もはや怒っているのか悲しんでいるのかもわからず、どう反応したら正解なのかもわからない。
しかし今回は別に意地悪な質問をされているわけではない。普通に選択肢の中から1つを選べば良いだけだ。答えは1つきちんと用意されている。
さっさと答えれば良いのにとジェマが頬を膨らませたときだった。ぼーっとアンジェリカを見上げていたエリオットが、ようやく小さなうめき声を発した。
こてりと首を傾げて、アンジェリカが続きを促す。
「…………しらない。お前の好きなものなんて、考えたこともない」
「うわ」と呟いたのは誰だったろうか。
場が静まり返る中、シリルが静かにティーカップを置く音が響いた。1人だけ余裕の表情で、子どもたちの戯れを眺めている。楽し気に揺れる尻尾に打たれ、ジェマは張り詰めていた息を吐き出した。
拘束されながらもふんぞり返っているリリアンには悪いが、恐らくエリオットはリリアンの好物にも興味がない。
「そう。わかったわ。どうぞお好きになさって」
お待たせして申し訳ないわとみなに頭を下げて、アンジェリカはティラミスの皿を手に取った。
もうエリオットには何も言わず、視線すら向けない。本当に今のアンジェリカの気持ちはジェマには一切読めなかった。普段は本当に気を抜いて接しやすくいてくれていたのだなとしみじみと実感しつつ、完璧令嬢の完璧さに尻尾を震わせた。
逆に何の反応もないことが怖い。正直に言えば、アンジェリカに忌避感を抱くエリオットに同情できてしまう。
まぁそれはそれとして、婚約者なのだから怖くても向き合ってほしいとは思うが。
ジェマはぱっと立ち上がってエリオットの前から余計なスイーツを片付けた。新しいお茶を淹れながら、なぜか泣きそうな顔をしているエリオットにアップルパイを見せる。
「これは食べます?」
「…………たべる」
先ほど頑なに手を付けようとしなかったアップルパイなのに食べるらしい。力なくフォークを握り締め、乱れた髪を耳にかけた。
食べるんだと思いつつ、もうすっかり冷めてしまったアップルパイをエリオットの前に置く。
「あぁジェマちゃん。クリームも乗せてくれるかしら」
「あ。はぁい」
そういえば、アンジェリカから後乗せクリームも渡されていたのだった。
なんでも冷めてしまうと風味が変わるから特製のクリームを乗せた方が美味しいとか。温かいうちに出せたら良し、冷めてしまっても美味しく食べられるようにと気を遣うところはさすが完璧令嬢だ。
可愛い瓶に入ったクリームをエリオットの皿に乗せる。
ちらとアンジェリカの顔色を窺ったエリオットが、ようやっとアップルパイを一口食んだ。




