9匹目:ミルクチョコが好きなのは誰? 1
1/4
しとしとと降る雨が、湖面に絶え間なく模様と作り出しては打ち消していく。晴れの日よりもリィンリィンと透水花の鳴る音も大きく響き、より幻想的な光景を作り出していた。
湖の周りには希少な木々や草花も生育しており、時折錬金術科の講師や生徒が採集に訪れている。ジェマが縄張り化していることも知られているため、何人かの講師は昨年までより顔を出すようにしてくれていると聞いた。
昨日も手の空いた時間に来てくれた錬金術科のおじいちゃん先生と、温かい薬草茶を飲んでほっこりした。
クロエに教えてもらったシュークリームの君候補たちの件についても目途がついた。
ジェマも正解を知らなかったが、そのうちの1人にこっそり《うさぎのエプロン》とベルノルトのことを仄めかしてみたらあっさり釣れたのだ。
『あ、え、あの。どうしてそれを……っ』
『あのお菓子美味しかったです。というわけでちょっと人助けをね』
『え……』
『いや違うんですよ。プレゼントじゃなくて賄賂なんです。【幸運の猫ちゃん】の噂知ってます?』
『あ……えっと?』
なんとなく納得したようなよくわからないような顔をした女子生徒は、おっとりと頷いて、しかしなんの答えにもなっていないことを悟ってこてりと首を傾げた。
淑女科の5年生、グリーストン子爵家のアマーリエ嬢は、柔らかな飴色の髪を品よくハーフアップにした上品なお嬢様だった。暖かな橙色の瞳は不安に揺れているが、ふくふくした手はとても温かそうだ。なんだか甘い香りもする。思わず抱き着きたい衝動に駆られるような、ほっこりするお姉様であった。
(この人が好みならあの馬鹿はうるせぇだけだろうなぁ)
なかなか趣味が良いではないか。
ぐぐっとベルノルトへの好感度が爆上がりした瞬間だった。
吹き抜けた風にふるりと身震いして、ジェマは肩に羽織ったブランケットをかき合わせた。
目下の問題は、見つかったシュークリームの君――もといアマーリエ嬢をどうやってベルノルトと引き合わせるかだ。
アマーリエ嬢に婚約者や恋人がいないことは確認済み。しかしあの気弱そうなお姉様がリリアンに目を付けられてしまえば、ちょっと大変なことになりそうだ。
ましてやアマーリエ嬢は5年生。もうすぐ卒業なのに、あれに煩わされるのは可哀想だというのもある。
「あ~。どうしよっかなぁ……」
一口大に切ったパウンドケーキにぷすりとピンを刺し、口に入れるでもなく弄ぶ。人に見られたら注意されるのは必至だが、ここにはジェマしかいないので問題ない。
机に肘を付いてぐでーっと体を倒す。あー、うーと言葉にならない言葉を発しながら、ふりふりとケーキを持った手を振っていたときだった。
「ふん。随分と行儀の悪い猫じゃないか。こんなのが【幸運の猫】なのか。体が小さいだけ野良猫の方がマシだろうに」
随分と偉そうな物言いではないか。ジェマは反射的に声の方へ視線を向けて、そして後悔した。
事実この学園にはジェマより偉くない人を探す方が難しかったりするのだが、それはそれ、これはこれである。
ジェマはこの男を知っている。直接顔を合わせたことはなかったけれど、この男の話題は嫌というほど聞かされてきた。
お花畑女に惚れ込み、婚約者を泣かせ、忠実な騎士の厚意を無下にし続けているお馬鹿さん。
エリオット・レッドグレーヴ大公令息だ。
自分に言われたことだとは思わなかったと言い訳して無視していれば良いのかもしれない。けれどここには今ジェマしかいないためその手は通じない。これみよがしにため息を吐き出したい気持ちをぐっと堪え、もぞもぞと起き上がった。
視線を落としたまま口を噤んでいるジェマを、また「ふん」と鼻で笑って見下ろしている気配を感じた。
暖かなブランケットを剥ぎ取り、名残惜しくそちらを見下ろしながら立ち上がる。別に学園内でそこまで作法を守る必要はないのだが、この男は守らなければうるさい類のお貴族様らしい。手櫛で髪を整えるフリをして、こっそりと睨みつけた。
ジェマが立ち上がって満足したのか、金髪の大公令息は三度鼻で笑った。ジェマも一方的に知っているとはいえ、名乗りもせずに勝手にジェマの向かいに腰かける。
「なんだ、座らないのか」
どこまでも偉そうな男である。公的にも準王族なので偉いことは確かなのだが、いきなりやってきて茶を出せとでも言うつもりか。言うつもりなのだろうがな、こちとら声をかけてもらえなきゃ話すことすら許されない平民ぞ?
表向きだけはすんっと澄ました表情を浮かべているが、スカートで隠れているのを良いことに尻尾はイライラと揺れている。
まだ直接被害を受けたわけでもないというのに、悪印象が強すぎて初っ端から好戦的になっているジェマだった。
「……座る理由がありませんので。わたしはこれで失礼いたします」
「座れば良いだろう。寛いでいたのではないのか」
「後見人から男子生徒と2人きりになることは控えるようにと注意されておりますので」
別にそこまで厳格に禁止されているわけではないので、正味ジェマの気分次第と言って差し支えないのだが。ジェマは今、俺様男の話を聞きたい気分ではないのだ。
散らかしていた机の上の物をぽいぽいと雑に秘密の部屋に仕舞い込んでいく。
「おい、待て」
そう言うが早いか、片付けを続けるジェマの邪魔をするように、細長い小箱が置かれた。
可愛いピンク色と水色のリボンでラッピングされた白いの箱に、ジェマは見覚えがあった。箱に印字されているロゴは、ジェマのお小遣いでは1粒買うのも少々躊躇してしまうような高級チョコレート店のものだ。貴族相手のプレゼントにも使用されるお店で、ジェマも数度だけいただいたことがある。
「……これは?」
「手土産が必要だと聞いた。食べると良い」
「いえ、いただけません。いただく理由がありませんので」
直接見なくてもエリオットが苛立ったのがわかった。けれどジェマもここで折れるつもりもない。箱には触れずに自分のものだけを仕舞っていく。
「お前は【幸運の猫】なんて店を開いているんだろう? 情報と菓子を対価に幸運を招く茶を飲めるんじゃないのか」
「全く違いますね。それに、大公令息の話を聞く対価がこのチョコレート数粒では割に合いません」
静かな空間にエリオットの舌打ちが響いた。思いのほか響いたことに驚いたのか、エリオットは一瞬目を瞠ったあとバツが悪そうにそっぽを向いた。
アンジェリカは『公爵家と大公家の婚約事情』を聴かせるための対価として、数量限定で予約必須の高級タルトを持ってきてくれた。確かにエリオットが持ってきたチョコレートも高級品ではあるが、こんな多くても5つくらいしか入っていない小箱では全然足りない。
(けち!)
ジェマは心の中でべぇっと舌を出した。