26匹目:あの日のアップルパイをもう1度 5
体調は落ち着いたけどやらなきゃいけないことが山積みであとちょっと時間が足りない…!
エリオットの態度がキツくなり始めたのがいつからだったか、もう覚えていない。気付いたときはお互いに素直に笑えなくなり、アンジェリカの笑みは強張ってエリオットの顔も険しくなっていた。
2人の付き合いは遡るとアンジェリカがまだ母親のお腹の中にいたときからだ。母親たちはまだ結婚する前から付き合いがあり、アンジェリカが眠っているお腹をエリオットが撫でたこともあるらしい。アンジェリカにとってのエリオットは、生まれたときから自然とそこにいたのだ。
まだ何もわからないような頃から一緒に遊び、手をつないで走り回った。
今考えると、アンジェリカが女児だとわかったときから婚約の話は出ていたのかもしれない。高位貴族の子どもなんてほとんど家から出ないで育つことも珍しくないのに、2人はとても頻繁に顔を合わせていた。
しかしアンジェリカより2歳年上のエリオットは、アンジェリカよりも先に教育が始まった。以前よりも会う回数が減ったことを寂しく思い、エリオットが勉強を頑張っていると聞いたアンジェリカは「自分もやりたい」と初めて両親におねだりした。
そしてその楽しさに夢中になっているうちに婚約が結ばれ、久しぶりにしっかりと顔を合わせたエリオットは、なぜかむすっとした顔をしていた。
大人たちは皆口を揃えて「男のプライドというものだよ」なんて苦笑していたけれど、幼いアンジェリカにはまったく理解ができなかった。
それが後から勉強を始めた2歳年下のアンジェリカの教育の方が先に進んでしまっていたせいでエリオットのプライドを傷つけたのだと聞いたとき、アンジェリカは酷く自分を責めた。
アンジェリカは快活に笑う元気なエリオットが好きだった。大人しく内向的で、促されなければ部屋の中で遊んでいたアンジェリカから見たエリオットは、とても眩しい真夏の太陽のような存在だった。
そんなエリオットが誘っても庭にすら出ようとせず険しい顔で本をめくっているのを見て、なぜだかとても胸が苦しくなったのだ。
まだ婚約の意味はよくわかってはいなかったけれど、エリオットとずっと一緒にいられる約束だと聞いた。それなのに、なぜ婚約した後の方が一緒に居られなくなってしまったのだろうか。
「わたくしのせい……」
急に態度を変えたエリオットのせいにできたら楽だっただろうなと考えたことはある。アンジェリカは自分は何かをしてしまった自覚が一切なかったから、何をどう直したら良いのかもわからなくて誰に謝ったら許されるのかもわからなかった。
そうしてたくさん悩んだ後、自分が嫌われてしまったのだと、そう結論を出してしまった。
エリオットに嫌われているから結婚なんてできないと泣いたこともある。嫌いな人に婿入りするなんて可哀想だから婚約を解消してほしいと訴えたこともある。
けれど大人たちの反応は芳しくなかった。大事なことを一時の感情で決めてはいけないとか、実際に結婚する年齢になれば2人の気持ちも変わるからなどと言いくるめられて、結局何の進展もないまま、アンジェリカとエリオットは大人になってしまった。
『君もランズベリー嬢から愛嬌というものを学んではいかがか』
吐き捨てるようにそう言ったエリオットの背を見送りながら、アンジェリカは涙すら出てこない自分に呆然とした。あの小さくて可愛らしい女の子なら、ぽろぽろと涙を零してみせるのだろう。そして言い過ぎたと慌てたエリオットが涙を拭ってあげるのだ。
これまでにもそんな光景は何度も見せつけられた。それでもアンジェリカは怒れなかった。
だってエリオットは今でもアンジェリカが贈ったハンカチを使ってくれていたから。アンジェリカが忙しいスケジュールの隙間を縫って刺繍を施したハンカチを。
そんな小さなことに絆されて、怒ることも悲しむこともしなかったのがいけなかったのだろうか。




