串刺しした理由
栄田武は、頼まれた翻訳に手がつけれずにいた。
学生の頃は多くの西欧、東欧系の言語を扱っていたが、医学部の研究を続けていく上では無用な知識で、今となれば英語が出来て、中国語が出来れば主要な論文には目を通すことが出来る。西欧・東欧言語は無用の長物まではいかないものの、誰かに読まれないようにたまにドイツ語でメモを取ったりするぐらいで、あまり使うことがなくなっていた。
もう一つの理由は、この翻訳を依頼した神山の意図が分からなかったからだ。
十五万を払って、たった一枚の紙切れの翻訳を依頼する。もう何度も研究の場に晒されてきただろう『ドラキュラ公の手紙』など今更再翻訳して何の発見があると言うのか。栄田は思った。もしかして、そうではない、新しい一次資料なのだろうか。そうだとしたらなぜ、応用化学生物科の神山が手に入れ、翻訳しようとしているのか。
表面的な行動や表情は分かりやすいが、実際のところ、神山の心の奥底で何を考えているのかまでは分からない。この手紙の翻訳を依頼した時も、一歳に満たない自分自身の記憶があると発言していた。本気で一歳に満たない頃の思い出があると言うのだろうか。『全知全能』などという表現も大学教授が発言するには少々行き過ぎたものに思える。
だが、金は受け取っているし、その金は使ってしまっている。別に返そうと思えば返せる額だが、この金額を出してでも翻訳してほしいと言う依頼を今更断るわけにもいかない。
栄田は受け取ったコピーをさらにコピーしてから、翻訳に手をつけ始めた。
最初は戸惑ったが、次第に勘が戻ってくるといつの間にか深夜まで掛かってやりきってしまった。
読み返してみると、不思議な話だった。ヴラド三世は自分の権力を知らしめるために串刺し行為をしていたものだが、神山が言っていたようにイェニチェリが連れくる兵士には徹底的に串刺しの行為を強要したと手紙にある。
しかも、日本語のように曖昧にボカす言い方を好まない西欧、東欧の言語にしては珍しく、理由が遠回しで、不明瞭になっている。
「……」
まるで何か暗号化しているかのようでもあり、なぜそこまではっきりと書けない事情があるのかがわからなかった。
確かに、相手がしぶとい兵で、完全に息を止めねば、たったの一撃で大事な兵を道連れにされかねない。そういう意味では串刺し行為は合理的とも言えた。
だが手紙に書かれた全ての記述はそうではなかった。念のため、とか、そうしなければならない決まりだとか、神の啓示だとか、どれもこれも曖昧で、何かを隠そうとしている。
文全体を見ても、明確にならない。
翻訳を終えた後に、もやもやとした消化不良な要素が残ってしまい、栄田は落ち着かなかった。
その晩。
眠りについた栄田は、夜半を超えた深夜、夢を見た。
見知らぬ街並みだった。
道は石畳で、煉瓦造りの建物が並んでいた。
それは実際に西欧に行ったことがない栄田が、精一杯想像したヨーロッパの街並みだった。
高い城が見え、そこに君主がいる。君主はドラキュラ公と呼ばれていた。
栄田はこれが、夢だ、と思った状態でそこに立っていた。
そして髭を生やした偉そうな男が、高いところから指示してきた。
「サカエダ、狼煙が見えたぞ。そろそろイェニチェリの兵が運ばれてくるぞ」
「……」
またあの仕事をしなければならないのか、と思うと嫌気がさした。
栄田は、周りにいる同じ格好をした男達に流されるようにして、大きな建物に入った。崖の下に作られている建物で、上から滑り台のような急な角度のスロープがあった。スロープの端は少し角度がついた壁があって、横に流れ落ちないようになっていた。スロープ下側の、終端には大きなオケのような、浅い底の井戸のような、人の背の高さより高い円形の壁で囲まれた部分が受けている。
水とか、砂とかを流して、丸いオケのような部分で受け止めるのではないか、と思われた。ただ、木で出来たスロープの部分や、桶の内側は濃い赤や黒いしみが出来ていた。赤黒いしみを見て、栄田は憂鬱な気分になった。
スロープの横には平になった台の部分が六箇所ほどあり、栄田はスロープ右側の真ん中の台に立った。
「配置についたか!」
先ほど高いところから指示した男とはまた別の男だったが、やはり命令する立場の位の高い男が言った。
栄田は返事をすると共に、右手に持った剣を振り上げた。
「……」
何故こんなものを持たされているのか。いつの間にこんなものが与えられたのか、栄田は奇妙に思いながらも、何度もスロープに向って振り下ろしたり、突き出したりする動きをした。
流れる砂や、水に剣を振り回すだろうか。
いよいよもって、重苦しい何かが栄田の心にのしかかってきた。
何が上から流れてくる。
興味はそこに絞られた。
しかしながら、最初に指示した男が言っていた。運ばれてくるのは『イェニチェリの兵』で間違えない。だとしたら、このスロープを流れてくるのは『イェニチェリ』の兵なのだ。栄田はそれに対して切りつけたり、剣を突くことが仕事になる。
まさか生きている兵士をこのスロープに追い込み、戦うと言うことなのだろうか。坂の上側の構造が見えないため、わからない。
「!」
それは突然始まった。
轟音と共に人がスロープを転げ落ちてくる。
これは、イェニチェリの兵なのだろう。
だが、スロープを落ちる兵は、モノのように無抵抗だった。足を踏ん張る訳でも、手を使ってしがみつこうともしない。服装も見ぐるみ剥がされた後のようで、簡素な布を纏っているだけだ。スロープを兵が転がり落ちていくと、脇に控える男達はその兵に剣を振り下ろし、突き、叩いていた。
「サカエダ! 真面目にやれ!」
転がっていった一人目を、ただ見逃してしまった栄田は、指示している上官から怒られた。
よし、と思って剣を構える。
人が落ちてくる。
スロープの入口に近い一人目が切りつける、次に、二人目も切りつける。傷がついて、血は流れるが、激しい血飛沫が飛び散る訳ではない。もう死んでからいく日も経っているかのようだ。
栄田もそれらを見よう見まねで、剣を振り下ろした。
剣が兵の体に当たった瞬間の手応えは、強烈な自己嫌悪を伴うためか人生の中で一番気持ちがわるかった。そのせいで、栄田は剣をすぐ引き戻そうと引き上げた。力の入れ方の悪さも影響してか、剣は激しく回転する兵の体に半端に食い込んでしまい、さらに兵の回転で剣が振り飛ばされた。
「サカエダ!」
再び叱咤される。慌てて飛ばされた剣を拾いに走る。
この仕事はなんだ。
栄田は思った。なぜ『死体』と思われる兵を、悪戯に傷つけるのだ。
死者への冒涜ではないか。
そう思いながらも、何かの心圧により栄田は逆らえなかった。
剣を持って、元の配置に戻ると、転がり落ちてくる兵に剣を振り続けた。
剣の手応えに慣れてくると、栄田は思い切って剣を振るうようになった。楽しいものではなかったが、ただの作業になり罪悪感が薄められた。
途中、転がり落ちた兵がどうなっているのかを確認した。
オケのような円形の壁の縁に立った者が、落ちてきた兵にさらに追い討ちを掛けていた。
流れる血の、最後の一滴までを絞り出し、集めているかのようだ。
最後の一人が落ちてきた時には、剣をする腕がパンパンになっていた。
息を整えながら、栄田は下の大きなオケの部分に溜まった兵を見下ろした。
オケの縁に立った者が、オケの中の兵に対して槍を刺していた。
そしてしっかり刺さったとみると、補助の槍を二つ、もしくは三つさし、そのまま持ち上げる。大量に魚の入った桶に槍を突き刺して持ち上げるようだった。ただ、それが魚ではなく人間であり、魚に比べ非常に重いため、周りに何人か補助の人間がいるというだけのものだ。
槍に突き上げられた人はそのまま運ばれ、並べられた。
「これがヴラド・ツェペシュのやり方か」
運んでいく先には規則正しく、串刺しにされた兵が並んでいる。
串刺しにされた死体が並ぶ、その光景だけをみるなら、恐ろしく、残忍なやり方だ。
だが、すでに死んだ死体だ、と思うと栄田はその前段階である戦争に恐ろしさを感じるものの、串刺しした光景自体には恐怖を感じなくなっていた。
オケの底が見えてきた頃だった。
それは突然発生した。
栄田は最初、オケの底に縁にいた人間が降りたのだと思った。
しかし、下にいる人間の驚き方が異常だったので、もう一度、オケの底で立ち上がった者の様子を見た。
着ている服がまず違った。上から転がり落とされた者と同じで、最低限の衣服しか身につけていない。露出している肌は、様々に傷がつけられ、打撃や流れた血で肌も変色していた。
なぜこの肉体が立ち上がったのだろうか。
スロープを転がり落とされる者は、戦場で拾い上げられた兵、つまり死体のはずだった。
オケの縁に立っている男が、その兵の死体を見て怯え、震え、十字を切って祈った。
「祈っている場合か! 早く刺せ!」
と、周りから声がかかる。
立ち上がった死体が、残っている他の死体に足をかけて、オケから這いあがろうとしていた。
「おい! 登ってくるぞ!」
槍を持って縁に立っている、別のものが槍を持って震えている男に代わって仕留めようと動き出す。
しかし、円形の縁で他の死体を串刺しして持ち上げようとしている者を避けようとして、桶に落ちてしまう。
落ちたものは槍を捨て、縁に上ろうと手を伸ばす。
その者も、さっきの死体と同様に、底に残った死体に足をかけていた。
「登れない、誰か、手を貸してくれ」
死体の表面は血だらけで、足を滑らせてしまう。
「死にたくない! 手を貸してくれ」
串刺しの最終工程をしている者も、やっと気づいてオケに落ちた者に手を差し伸べる。
「だめだ、引き上げるな!」
上から指示している上官が事態に気付いて、そう言った。
どうして引き上げるな、というのだろう…… まさか……
必死に上ろうとする者は、再び足を滑らせ、底に落ちてしまう。
縁に上ろうとしていた死体が、ようやくその者に気づき、近づいていく。
慌てて落とした槍を掴もうと考えた。ゆっくりと対峙しながら、落とした槍に手を伸ばす。
槍に手が届いた…… そう思った時『知らない兵』の顔がその腕に噛み付いた。
「!」
いや、十五世紀にゾンビはなかったはずだ。
だからこれは夢なのだ。
栄田は震えながら、自分に言い聞かせた。
そもそも現代でもゾンビは存在しない。『ゾンビ』自体、架空のものなのだ。血液が供給する酸素が止まった状態では、脳が働かない。エネルギーも指示も来ない状態で、人間の筋肉がどうやって弛緩すると言うのか。
逆だ。ここが夢だから、ゾンビは存在するのだ。
栄田はそう考えて、余計にゾッとした。
少なくとも三体のゾンビが底にいる。
縁に立っている者は警戒しながら、動くゾンビにトドメを刺そうとしていた。
首を切り落とすか、完全に胸を貫けば動かなくなる。
縁を右に左に動きながら、中の様子を見る。
もはや落ちたものは生きているものではなく『ゾンビ』と化していて、敵だ。
「……」
突然、縁にいた男が消えた。
「刺されたぞ『奴ら』が槍を使った!」
「膨れ上がってくる」
人が増えていく。重なった死体が、オケのそこから次々と湧き上がってくる。
丸いオケ状の構造物からポップコーンのように増え、溢れる死体。
縁から溢れ落ちた死体は、フラフラと立ち上がって動いていく。
「ダメだ、助からない」
プールに張られた水のように、死体が栄田の足元までやってくる。
夢だから逃げればいい。
目を覚ませばいい。
そう考えながら、何もできないでいる栄田。
ついに伸びてくる手に引っ張られ、その蠢く死体のプールに引き摺り込まれた。