いとしの千翔先輩 2
「おはよう、瞳子!」
「おはよう」
千翔先輩を二年二組の教室までお見送りして、一年一組の教室に入ると、史ちゃんが駆け寄ってきた。
史ちゃん――相川史奈ちゃんは、高校に入学して最初に仲良くなった友だちだ。
わたしの通っていた中学校から、この高校に入学したのはわたししかいないから、史ちゃんに話しかけてもらったときは、すごく嬉しかった。
入学して一か月が過ぎ、クラスにたくさん友だちもできたけど、いまでも史ちゃんは一番大事な友だちだ。
「ねぇ、瞳子。数学の課題やってきた?」
「うん」
「お願い! 写させて! わたしすっかり忘れてて……今日絶対あたりそうなんだよね」
「いいよ」
わたしはにっこり微笑み、史ちゃんと一緒に自分の席に向かう。わたしの席は、窓際の日当たり抜群の場所。
少し開いた窓から、爽やかな五月の風が吹き込んでくる。わたしの肩にかかるまっすぐな黒髪が、ふわっと揺れた。
「瞳子、今日も千翔先輩と一緒に来たの?」
「うん」
史ちゃんは赤いフレームの眼鏡をくいっと上げて、苦笑いする。
「毎朝千翔先輩が住んでる上ノ原まで、迎えに行ってるんだって?」
「そうだよ」
自分の席にリュックを置き、数学の課題を「はいっ」と差しだす。前の空いていた席に腰掛けた史ちゃんが、「ありがと」と両手を合わせ、さっそく自分のノートに写しはじめる。
わたしは英語の参考書とノートを取りだし、それを開く。
「でも瞳子んち、綾浜でしょ? 学校前通り過ぎて、上ノ原って……」
「四十分くらいかかるかなぁ」
「で、また学校前まで戻ってくるんだよね? 信じられない」
史ちゃんはシャーペンを動かす手を止め、ため息をつく。わたしは少し笑って、ノートに英文を書いていく。
「瞳子は、千翔先輩のどこが気に入ってるの?」
「え? 千翔先輩、めっちゃカッコいいでしょ?」
史ちゃんが首をかしげた。わたしは千翔先輩の姿を想像しながら、力説する。
「目が隠れるほどの前髪も、わたしを睨む鋭い目つきも、低い声で吐きだされる乱暴な言葉も、ちょっと姿勢の悪いところも、全部カッコいいよ」
わたしの声に、史ちゃんはさらに首をかしげる。
「そ、そう? たしかに顔はまあまあイケメンだし、背も高くて足長いけど……でもいつもむすっとしてて、瞳子のこと、なんか迷惑そうにしてない?」
「でも『おまえの顔は見たくない』とまでは言われてないから」
にこっと笑ったわたしの前で、史ちゃんが顔をしかめる。
「わたしは千翔先輩に、幸せになってほしいだけなの。全力で千翔先輩をお守りできれば、それでいいの」
史ちゃんは、はあーっと大きなため息をついた。
「やっぱり不思議ちゃんだよなぁ、瞳子って。こんなにかわいくて、頭良くて、スポーツ万能なのに」
「そんなことないよ」
「この前も告られてたでしょ? バスケ部の子に」
「ん? ああ、うん」
そういえばそんなこともあった。隣のクラスの男の子で、入学式にわたしを見かけて、好きになったって言っていた。
だけどいま、わたしの頭のなかは千翔先輩でいっぱいなので、丁重にお断りさせていただいたけど。
「他にも瞳子を好きな男子なんて、山ほどいるのにさぁ。なんで千翔先輩なのか……」
「わたしね、去年の秋、千翔先輩に助けてもらったんだよ」
ノートに書いた英文にピンク色のマーカーを引き、わたしは史ちゃんに話しかける。
中学三年生だったころ。上ノ原駅のホームで。ワンピースを汚してしまったわたしに気づいて、声をかけてくれたのが千翔先輩だった。
『これ、使えよ』
耳元でささやかれた、低い声。
『その服、返さなくていいから』
さりげなくわたしの腰にジャージを巻きつけて、さっと立ち去っていく先輩は、最高にカッコいいヒーローに見えた。
そしてわたしはそのジャージから、先輩の名前とこの学校の生徒だということを知ったのだ。
「へぇ、あの千翔先輩がねぇ……」
史ちゃんが感心したようにうなずく。
「それでわたし、どうしてもジャージを貸してくれた人にお礼をしたくて、この学校を受験したの」
「えー、瞳子の成績だったらもっとレベルが高くて、家から近い高校行けたでしょ?」
「ううん、わたしこの学校に来て、先輩に会えてよかった。だって思ったよりずっとずっと、素敵な人だったんだもん」
史ちゃんのため息と、チャイムの音が重なった。史ちゃんが「やばっ」と言ってシャーペンを動かしはじめる。
「ところでさ、さっきから瞳子、なに書いてんの? それ、高二の参考書じゃない?」
「あ、これは千翔先輩のために、テストに出そうな英文まとめてるの。先輩、英語が苦手だから」
「うわ、そんなことまで。あんたマジでやばいわ」
わたしはあきれ顔の史ちゃんの前で、にっこり笑った。
わたしは毎日、授業を真面目に受ける。体育の授業も、決して手を抜かない。
お弁当は栄養バランスよく作り、掃除も隅々まで綺麗に仕上げる。
わたしって、クソ真面目なんだと思う。中途半端が嫌いな完璧主義者。
小さいころからずっとそうだったから、自然と学力が上がって、運動も得意になった。
料理や掃除はさらに上達するように、いまでも研究を怠らない。
友だちは大事に、笑顔を忘れずに。
そんなわたしのことを、みんなは優等生と呼ぶ。
中学のとき、生まれてはじめて男の子から告白されて、付き合うことになった。その人は、わたしの真面目なところが好きだと言ってくれた。
わたしは彼のことをよく知らなかったけど、好きになってもらえたならば、精一杯がんばろうと心に決めた。
朝も昼も夕方も、彼のために、彼に喜んでもらえるように尽くした。
彼の好きな服を着て、彼の好きな髪型にして、彼の好きな料理を作って、彼の好きな映画を観て……わたしの毎日のすべてを、いや、命のすべてさえ彼に費やした。
でも彼はわたしに言った。上ノ原でデートした日、駅のホームで。
『なんか瞳子って、必死すぎて気持ち悪い。もうその顔、見たくない』
いつのまにか彼にとって私は、「好きな人」から「顔も見たくないほど、気持ち悪い人」になっていたのだ。
彼はわたしを残し、電車に乗って去っていった。
取り残されたわたしの心には、ぽっかりと穴があいて、もう生きる意味がなくなったと思った。