壁のうさぎと塩ラーメン 3
千翔先輩の部屋を出ると、すぐにそこはダイニングキッチンだった。
先輩の家は三つの部屋とダイニングキッチンがある、3DKという間取りだ。先輩とお父さんが住んでいた家に、去年三人が引っ越してきたらしい。
「終わったか。ちょうどメシできたぞ」
見ると先輩がどんぶりをテーブルに並べている。ラーメンだ。
「す、すみません! 先輩が作ってくれたんですか?」
「ああ。おまえらゲームに夢中で、声かけても反応ねーから」
うわ、わたし、ひとつのことに没頭すると、まわりが見えなくなっちゃうから。
「あたしもちかちゃんのお手伝いしたんだよー」
椅子にのっている真央ちゃんが、お箸を並べている。
「インスタントだけど、うまいんだ、これ。食うだろ?」
「は、はいっ、いただきます!」
わたしはおそるおそる席につき、どんぶりを見下ろす。
ラーメンは塩ラーメンのようで、キャベツやにんじん、ハムやたまごなどがたっぷりのっている。
「いただきまぁす!」
わたしの隣で理央くんが、ラーメンをすすりはじめた。
「おいしい! やっぱちかちゃんのラーメンはサイコーだね!」
「あたりめーだ。瞳子も早く食え。のびちまうぞ?」
「は、はい」
わたしがひとくち、つるんっと麺を口に入れると、先輩がつぶやいた。
「もしかして……インスタントラーメン食うの、はじめて?」
わたしは麺を飲み込み、こくんっとうなずく。
「えっ、とーこちゃん、ラーメン食べたことないの?」
「ら、ラーメンは食べたことあるけど。こういうのははじめてで」
「おいしから食べてみなよ!」
理央くんにせかされ、野菜と一緒に麺を食べた。熱いけどおいしい。
「……おいしいです」
「ねっ? おいしいでしょ!」
理央くんがテーブルに手をついて、ぴょんぴょん跳ねる。どんぶりのスープがはねて、テーブルに飛び散る。
「おい、理央! 座って食え」
「はぁい」
先輩は自分のラーメンを小さなお椀にとって、ふーふー息を吹きかけてから、真央ちゃんに渡した。
「ありがとー、ちかちゃん」
「まだ熱いから、気をつけろよ」
「はぁい」
わたしはぼんやりとそんな光景を眺める。
「なんだよ?」
目が合った先輩が、顔をしかめた。
「い、いえ。千翔先輩、優しいお兄さんなんだなぁって思って……」
千翔先輩が鋭くわたしを睨みつけた。だけどなぜか全然、怖くない。
「ちかちゃんは優しいよ」
「うん。あたし、ちかちゃんがお兄ちゃんになってくれてよかったー。だってりおくんは、イジワルなんだもん」
「なんだとー!」
ふたりが騒ぎはじめて、先輩がうんざりした顔でなだめている。
なんだかすごく新鮮。わたしの知らない千翔先輩だ。
「あ、あの、恵麻さんは?」
この場に恵麻さんの姿がないことに気づき、わたしは聞いた。
「ああ、食欲ないからいらないって。冷たくて、さっぱりしたものしか食いたくないんだってさ」
「そうですか……」
わたしは「あっ」と思いだす。
「あのっ、わたしが持ってきたやつ、フルーツゼリーなんですけど、どうですか? グレープフルーツのさっぱりしたものとかあるから、食べられるかもしれません」
「なるほど」
千翔先輩が冷蔵庫から箱を取りだし開いた。
なかには色とりどりのゼリーが、カップに入って並んでいる。
「わぁ、きれい!」
「おいしそー! これ、とーこちゃんが作ったの?」
「うん。いろんなフルーツ使って、作ってみたの」
「すげぇな。真央、これ、ママに持ってってやりな」
「はぁい」
真央ちゃんがグレープフルーツゼリーを持って、恵麻さんの部屋に入っていく。
「ぼくも食べたい!」
「おまえはラーメン食ってから」
千翔先輩が理央くんからゼリーを取り上げ、冷蔵庫にしまった。
ラーメンを食べたあと、千翔先輩の部屋に集まり、四人でトランプをした。
わたしはこんなふうに小さい子と遊ぶのはもちろん、友だちとも遊ぶことがほとんどなかったから、すごく新鮮だった。
トランプのあとゼリーを食べて、それから真央ちゃんと絵を描いて遊んだ。
「とーこちゃんがあたしのおねえちゃんだったら、いいのになぁ。ちかちゃんみたいに」
わたしの膝に座っている真央ちゃんがつぶやく。
「無理だ、そんなの」
千翔先輩がゲームをしながら言うと、隣で理央くんがひやかす。
「無理じゃないよー。ちかちゃんと、とーこちゃんが、結婚しちゃえばいいんだよ!」
わたしは目を丸くする。千翔先輩はぽかっと理央くんの頭を叩いた。
「アホなこと言うな!」
「あー、ちかちゃん、赤くなった! やっぱり好きなんだー、とーこちゃんのこと! ひゅー、ひゅー」
「このっ、クソガキ!」
千翔先輩が理央くんの身体を抱え込み、理央くんが「やめてー」と笑いながら叫んでいる。
わたしはそんなふたりを見て気づく。本当に先輩の顔は赤くなっている。
「千翔先輩? 大丈夫ですよ」
わたしはにっこり笑って、千翔先輩に言う。
「わたしが先輩と結婚するなんて、ありえませんから」
先輩は一瞬目を見開いたあと、すぐにふてくされた顔をした。
「あたりめーだ」
わたしはもう一度、微笑む。
千翔先輩には幸せになってほしいだけ。先輩に好きな人がいるなら、全力でその人との仲を応援する。
「なんだー、結婚しないのかぁ」
理央くんが口をとがらせる。先輩はもう一度その頭を軽く小突いて、立ち上がった。
「もうそろそろ帰るぞ。支度しろ」
「あ、はい」
気づくともう、夕方になっていた。この家にいると、時間が経つのが早い。
「えー、とーこちゃん、帰っちゃうの?」
「うん、またね」
「また遊びに来てくれる?」
真央ちゃんが、潤んだ目で聞いてくる。答えに困ったわたしの代わりに、先輩が言った。
「また来るから、今日はバイバイしろ」
「はぁい」
また来ていいんだ。心のなかが、ふわっとあったかくなる。
帰る支度をしていたら、部屋から恵麻さんが出てきた。
「ゼリー、めっちゃおいしかったよ、ありがとう」
恵麻さんに笑顔で言われて、嬉しくなる。
「もう帰るの?」
「はい」
「また来てよ。今度はあたしたちどっか行って、千翔とふたりきりにしてあげるからさ」
「だからそういうのやめろ。うぜえ」
千翔先輩がばっさり切って、恵麻さんが笑っている。
すごいなぁ、千翔先輩は。お母さんに向かって、「やめろ」とか「うぜえ」とか言えちゃうなんて。わたしはお母さんに、そんなこと絶対言えない。
「とーこちゃん、また遊ぼうね」
「ゲームしような!」
三人に見送られ、わたしは手を振る。
すると先輩が、靴を履きながら言った。
「おれ、瞳子を駅まで送ってくる」
「え、わたしひとりで帰れます」
「いいんだよ。買い物のついでだから」
振り向いた先輩が、恵麻さんに聞く。
「なんか食いたいものある? おれ、夕飯も作るよ」
「え、マジで? 千翔って、天使じゃん。じゃあアイス買ってきて。夕飯は千翔の好きなものでいいから」
「わかった」
先輩が慣れた感じで外へ出る。めんどくさいとか言ってたくせに、ちゃんと料理とか作ってるんだ。
わたしは「お邪魔しました」と頭を下げて、先輩のあとを追った。




