手遅れ
頬を撫でる生ぬるい風で、「俺」は目を覚ました。
硬い床の冷たさが直接、あるいは服越しに伝わってくる。
どうやら気を失った拍子に倒れ込んだらしい。
あちこち痛む体に鞭打ち、起き上がる。
疲れからなのか体に妙な感覚があるが、体調不良の類ではなさそうだ。
隣にはヒトギラが仰向けになって寝ていた。
彼もまた、何らかの原因で気絶してしまったらしい。
周囲に視線を巡らせてみるも、黒い水はどこにも見当たらなかった。
昔は壁があったであろう面から見える外の世界は、既に暗くなりつつあるが、夕焼けに染まった雲がまだ僅かにある。
意識を失っていたのはほんの少しの間だけだったのだろう。
そして目の前の装置は壊れている――ということは、ギリギリのところで間に合ったようだ。
少なくともヒトギラと旧王都以北の人々を守れたことに、「俺」は胸を撫で下ろした。
ふと自分の体に目を落とす。
何やら見慣れた障壁魔法がかかっていた。
ヒトギラがスキルを使ってくれたのだろうか。
透明な障壁越しに、すぐ傍で横たわる彼を見る。
大きな外傷も無く、いつも眉間に鎮座している皺が取れた穏やかな表情で、目を閉じていた。
改めて、綺麗な顔だなと「俺」は場違いに感心する。
ともあれ、早く起こしてやらねば。
初夏とはいえこんなところで寝ていては、風邪をひいてしまうかもしれない。
「ヒトギラ、起きて」
「俺」は彼の肩を軽く揺さぶる。
反応が無い。
熟睡してしまっているのだろうか、と思うと共に、嫌な想像が頭をよぎった。
「……ヒトギラ?」
もう一度声をかける。
「ヒトギラ!」
やはり反応は、無い。
薄暗い部屋の中で「俺」の声だけが反響する。
再度、彼の顔をよく見てみた。
……彼はもともと色白な方だけれど、果たしてここまで白かったろうか?
いや。
いや、大丈夫、大丈夫だ、だって障壁がまだ消えてない。
大丈夫に決まっている。
そう言い聞かせながら、「俺」は恐る恐る、ヒトギラの顔に手を伸ばす。
途端に障壁が消え、何に隔てられることもなく、「俺」の手と彼の頬が直に触れ合った。
冷たい。
氷みたいに冷たくて、それから、硬い。
「俺」はパッと手を離した。
心臓がやかましく動き、耳鳴りがする。
もう一度、手を伸ばす。
今度は口元にそっと当てた。
無い。
そのまま手を滑らせるように移動させ、首筋に触った。
無い。
彼の胸に耳を押し当てる。
無い。
無い、無い、無い!
ヒトギラの生きている証が、どこにも無い!
「俺」は半狂乱になって彼にすがりつく。
嘘だ、信じたくない。
そもそも、どうして彼が死ぬんだ。
理屈が通らない、おかしいじゃないか。
だってこれだけ近くにいた「俺」が生きてるんだし、何より装置はちゃんと起動した。
その証拠に、もう黒い水は……。
「ま、さか」
「俺」は外を見る。
夕焼け。
……この夕焼けは、いつのものだ?
さっきは自分が気を失ってすぐ目覚めたと思ったけれど。
本当に、そうか?
もしかしたら。
あれから1日以上、経っているんじゃないか?
瞬間、冷や汗が噴き出る。
だとすれば。
水が無いのは、もう過ぎ去ったからで。
ヒトギラが死んでるのは、水に触れたからで。
なんで、って言ったら……装置が上手く作動しなかった、から?
ひびが入り、かろうじて形を保っている状態の装置に視線をやる。
否、それは有り得ない。
装置が確実に起動し、その魔法を発動させた。
「ならどうして?」
――気付きたくなかったけれど、嫌なことほどわかってしまうものだ。
高等魔法。
「俺」の体の違和感。
こんな時だけ憎らしいほど物分かりの良い頭は、答えを意外と簡単に導き出してしまった。
黒い水は、高等魔法によって生まれたもの。
エラの装置も、高等魔法を発動させるもの。
おそらくは黒い水が装置に接触すると同時に装置が起動し、水と魔法が反応したのだ。
高等魔法同士の接触は、何が起こるかわからない。
であれば、副産物と魔法そのものでも、何かが起こるのは道理。
今回の場合、起こった「何か」は、まず第一に装置の魔法の不発。
そして。
「……?」
握った手の中に熱を感じ、開く。
そこには小さな炎が揺らめいていた。
魔法だ。
本来なら使えるはずのない魔法が、今の「俺」には使えていた。
とするとこの妙な感じも、体に魔力が宿ったが故。
そう。
第二に起こったのは、最も装置から近い位置にいた「俺」の肉体の変質だ。
「俺」は試しに、色々魔法を使ってみた。
炎。氷。風。土。
弱いもの、強いもの、中ぐらいのもの。
何でも出せる。
障壁だって、自在に張れた。
「……はは」
思わず乾いた笑い声が漏れる。
「なんだよ、今さら」
誰に向かってでもなく、慟哭した。
「今さらこんなの要らないよ! なんで今なんだよ、なんで! スキルのひとつも発現しなかったくせに! もう全部手遅れなんだ、みんな死んじゃったんだ! 俺のっ……」
ぽろ、と目から温かいものが零れる。
「俺の、せいで……」
「俺」はうずくまり、呻くように泣いた。
そうだ、全部「俺」のせいなんだ。
「もう出て来て大丈夫」なんて言わなければ。
「旧王都に行く」なんて言わなければ。
あの崖で立ち止まらなければ。
黒い獣に勝てるくらい強ければ。
階段で足を滑らせなければ。
もしそうだったらなら、みんな死なずに済んだ。
装置の起動だって間に合った。
ギリギリのところでせき止めていた後悔と自責の念が、土砂となって「俺」の心を壊し、埋もれさせていく。
役立たず。
愚図で力も無いくせして、一丁前に正義感を振り回して。
守られるだけ守られて、挙句託されたものさえ無駄にした。
こんなことならば、生まれて来なければよかった。
あのまま誰とも出会わず、さっさと死んでいればよかったんだ。
「俺」は吐き気すら催すほどの自己嫌悪の渦の中、しばらくそのまま動けないでいた。
しばらく、というのは半日か、あるいは数日か、あるいは数週間か……定かではない。
ともかく嫌悪の激流が汚泥に変わる頃、「俺」はふらふらと立ち上がった。
みんなを迎えに行かなくては。
ヒトギラも「俺」と2人だけじゃ寂しいだろう。
彼は素っ気なく見えて、実はみんなのこともとても大事に思っていたのを、「俺」は知っている。
「ちょっと行って来るね。すぐ戻るから」
「俺」は横たわるヒトギラにそう言い、魔法で南へと飛び立った。




