最後の一手
「おどきくださいまし! 私たちはあの黒い水を消すためにここに来たんですのよ! あなた、助かりたくありませんの!?」
痺れを切らしたデレーが男に言い返す。
しかし当の男は震えながらこちらを睨むだけで、聞く耳を持っているようにはとても見えない。
「クソが……」
じりじりと獣が迫る中、ヒトギラが悪態をつく。
全くもって同感である。
「俺」も雑言のひとつやふたつ、吐いてやりたかった。
が、それをすると歯止めが効かなくなりそうだから、必死に感情を抑え込んでいるのだ。
「ヒトギラさん、魔力はいかほど残っておられまして?」
少し声を落としてデレーが問うた。
ヒトギラは「あと3匹燃やすくらいが関の山だな」と返す。
獣の数は、「俺」から見えている範囲でも4体。
後ろにもいるだろうから、全部で5、6体くらいか。
いずれにせよ、ヒトギラの魔法で片付けてもらうことは難しい。
前方の獣だけに的を絞って突破、という手もあるが、おそらくすぐに追いつかれてしまう。
「ならば上等。よろしくってよ」
打開策を見いだせずにいると、デレーがそう言い、杖をつくように斧を地面へと突き立てた。
威嚇をするかのようなその動作に、男はびくりと肩を跳ねさせる。
「ヒトギラさん」
「なんだ」
「フウツさんのこと、よろしくお願いしますわ」
「……ああ」
言葉の意味を理解するより早く、ヒトギラが「俺」の手をとって城の方へと駆け出した。
彼は行かせるまいと立ちふさがる獣たちに怯むことなく、的確に炎を命中させる。
そうして獣を払い退け、包囲網にできた隙間を潜り抜けた。
「俺」は後ろを振り向く。
また別の獣が食らいつかんと飛びかかってきた。
「に、に、逃がさない!」
「いいえ、逃がさせていただきますわ!」
デレーが斧を振り下ろし、獣を打ち落とす。
さらに追撃をしかけてくる獣たちも、1体、2体と彼女は薙ぎ払っていった。
しかし刃物ではあれを殺せない。
あの調子で交戦していたら、彼女はいつまで経っても奴らを振り切ることができない。
「デレー!」
「俺」は彼女の名を呼ぶ。
目が合った。
デレーは、心底嬉しそうに微笑む。
頬を赤らめ、花のように。
初恋をした乙女のように。
「また後でお会いしましょう、フウツさん。愛しておりますわ」
それだけ言って、再び獣たちへと立ち向かって行く。
奥の方には既に黒色がちらついていた。
「俺」は前を向く。
否、目を背ける。
今にも何かを決壊させてしまいそうな、思考の濁流を抑え込んだ。
軋む音がしたけれど、構わず押さえた。
「ヒトギラ」
無言で「俺」の手を引き続ける彼に、言う。
「大丈夫。俺、まだ走れるよ」
「……そうか」
彼は手を離し、それからちょっと眉を下げた。
「俺」たちは走り続ける。
後ろから聞こえてくる音が、どんどん遠くなっていく。
ひたすらに足だけを動かした。
息が苦しかったが、構わず地を蹴り、前へ前へと体を進めた。
そうしているうちに、やがて「俺」たちは城に辿り着く。
ヨツ国側から真っ直ぐに来たから、今いるのは正面から少々ズレた位置だ。
「俺」たちは城の外壁に沿って、2年前に使った入り口に向かう。
その際、ちらりとヨツ方面の景色が目に入った。
大壁は真っ黒に染まり、僅かに見えるアグラヴァ山も同じく黒一色。
先ほどまで「俺」たちがいた場所も、おそらくは。
黒い水も近くまで迫ってきている。
見たところ、高さは子どもがちょうど沈んでしまうくらいか。
速度はたぶん人が走るよりも何倍か速い。
粛々と大地を侵食する黒い水に、「俺」は改めて身震いした。
もしかしたら間に合わないかもしれない、という嫌な想像が芽を出す。
が、「俺」はすぐさまそれを振り払った。
エラができないことを提案するはずがない。
絶対にできる。
間に合う。
間に合わせるんだ。
「俺」たちは城内に入る。
確か3階の中央の通路を直進すれば、装置のある部屋に行けるという話だった。
玄関ホールを突っ切り、砂利や瓦礫だらけの階段を駆け上がる。
2階に着き、折り返す時に下を一瞥すると、入り口から黒い水が流れ込んで来ていた。
水は高低差を無視して、同じ速度で全ての物体を呑み込んでいく。
……おそらく、目と鼻の先まで迫るそれを見て、焦ってしまったのだろう。
3階へと続く階段を昇り始めてすぐに、「俺」は足を滑らせた。
ざり、と靴裏と砂利の擦れる感触。
踏みしめようとした1歩に上手く力が入らず、重心が明後日の方向にズレる。
慌てて体勢を立て直そうとするも失敗し、体が後ろに傾いた。
落ちる!
「俺」は反射的に目を瞑り、来るであろう衝撃に備える。
しかし、「俺」の背は硬い段差に打たれることはなく、代わりに力強く、温かいものに受け止められた。
ヒトギラが支えてくれたのだと、遅れて気付く。
「あ、ありがとう、ごめん」
「気にするな」
会話もほどほどに、「俺」たちはまた走り出す。
背後と足元からは、穏やかな、しかし不吉な音。
「俺」は近付いて来るそれから逃れるように、必死に歩を進める。
階段を昇り切ると、すぐそばに大きな通路があった。
きっとこれだ。
迷わず、通路に入る。
突き当りに大きな扉……があったであろう空洞が見えた。
その奥は部屋になっているようだ。
「あそこだな」
「うん!」
走りっぱなしで棒のようになった足を叱咤し、ヒトギラと共に部屋を目指す。
水が壁に当たる音が聞こえてきた。
でも、もう振り向いている余裕は無い。
走る。
走る。
そのままの勢いで部屋に飛び込む。
四角錘の形をした彫像があった。
これが装置に違いない。
鞄から「鍵」を出す。
はめ込む位置はわかりやすく凹んでいた。
「鍵」を持った右手を伸ばす。
あと少し。
すぐ後ろで水音がする。
あと腕1本分。
「鍵」の中で光が揺らめく。
あと拳ひとつ分。
装置が僅かに光る。
あと――。
そこで、「俺」は気を失った。




