心に蓋をして
宙を舞った「俺」は、ほどなくして尻もちをつく形で地面に落ちる。
フワリが自分を投げ戻し、その反動で代わりに落ちて行ったのだと気付くのに、そう時間はかからなかった。
「フワリ!!」
「俺」はよろめきながら立ち上がり、崩れた崖の縁へ駆け寄ろうとする。
が、あと少しというところでデレーに後ろから抱き留められてしまった。
「は、離してデレー! フワリが!」
拘束から逃れようともがくが、彼女は「俺」より力が強い。
胴体に回された腕はびくともしなかった。
そうこうしているうちにエラが「俺」たちの横を通って縁に行き、崖下を覗き込む。
そして何を言うでもなく、すぐに踵を返して戻って来た。
「エラ……?」
「行くぞ」
彼女は目を伏せ、ただそれだけ言う。
いつも多弁な彼女のその行動が何を意味するのか、想像には難くなかった。
でも、それでも、にわかには信じられない。
身軽なフワリのことだ、もしかしたら上手く着地できているかもしれないじゃないか。
実は足をくじいただけで、誰かが引き上げてくれるのを待っているかもしれないじゃないか。
……そうだ、とにかくこの目で見ないことには納得できない。
彼の最期がこんなものであっていいわけがないんだ。
だって、だって――。
「フウツさん」
不意にデレーの声が耳を打った。
「今は……今は、進みましょう。この道を往きましょう。……ですからその尊い心に、今だけ蓋をしてくださいまし」
その諭すような声色に、視界が戻って来る。
どうやら「俺」は、文字通り前が見えなくなっていたようだった。
デレーの腕がするりと解かれる。
「俺」はゆっくりと崖に背を向けた。
ヒトギラの何か言いたげな表情が。
トキの今にも泣き出しそうな表情が。
エラの小さな背中が。
はっきりと目に映った。
「……ごめん」
1歩。
また1歩と、崖から離れる。
「行こう」
言って、「俺」は隣に立つデレーに精一杯の笑顔を見せた。
作り笑顔であることはバレバレだっただろう。
それでも彼女は「ええ」と返し、「俺」と共にみんなのところへと歩を進めてくれた。
黒い水を止めたら、必ず迎えに来よう。
「俺」はただそれだけを決意して、振り返ることなく、みんなとその場を後にした。
デレーの案内通り谷を右手にして進み、西の橋を渡る。
幸いこちらは無事であり、向こう岸も戦闘の気配は無かった。
麓の状況を望遠鏡で確認しつつ、慎重かつ迅速に山を下りていく。
これまた幸運なことにさしたる障害も無く、「俺」たちは大壁に面する野原にまで行き着いた。
「あと少しですわね。エラさん、件の装置は王城のどこにありますの?」
「3階の奥にある広間じゃ。階段を上がって、真ん中の通路を真っ直ぐ行ったところの部屋じゃな」
「衝撃波で壊れたりなんかしていませんわよね?」
「当然じゃ! 例え王城が全壊しておっても、装置には傷ひとつ無いじゃろうな。あれが壊れるのは、その役目を果たし終えた時だけじゃ」
「俺」はデレーと自信満々なエラの会話を聞きながら足を動かす。
2人はああしていつものように喋ってくれているが、やはり空気が沈んでいるのは否めない。
原因のひとつを作っている「俺」が言うのも何だけど、それくらい、真新しい空白はあまりにも大きく感じられた。
でもまだ、痛みにうずくまるわけにはいかない。
エラから直々に託されもしたんだ、これだけはやり遂げなければ。
そうやって全部に蓋をして、見ないふりをする。
太陽が浴びせる罵声も、聞かないふりをする。
考えないように、考えないように、と「俺」はひたすら2人の会話に耳を傾けた。
にも、かかわらず。
無意識までは騙せないようで、「俺」は気付けば後ろを……先ほどまでいた山の方を振り返ってしまっていた。
足は止めていない。
我に返ったら、すぐに前を向く。
けれどふとした瞬間に、視線があの山に攫われているのだ。
何が「俺」をそうさせているのか、なんて言うまでもない。
我ながら覚悟の決まらない心に腹が立つ。
やがて「俺」たちは大壁の前までやって来た。
大壁は衝撃波によってかあちこちにひびが入っており、崩れて穴ができている部分もある。
通常時なら由々しき事態だが、今に限っては好都合だ。
わざわざ魔法を使わずとも、容易に侵入口を作れる。
「ふむ。デレーよ、この辺りを斧の先で突いておくれ。他の部分には触れぬよう、一点集中で頼むぞい」
エラも同じことを考えていたようで、大壁をひと通り見渡すとある箇所を指してそう言った。
「承知いたしましたわ」
デレーが頷き、すぐさま斧を構える。
「俺」は邪魔にならないよう、少々彼女から離れようとし、そのはずみでまた山の方に目をやってしまった。
駄目だ駄目だ、と「俺」はすぐに視線を逸らそうとする。
しかしそれは叶わなかった。
俺の心どうこうの問題ではなく、信じられないものが見えたからだ。
「え……」
黒。
黒色であった。
混じりけの無い黒色が、山の表面を塗りつぶしながら、こちらに近付いて来ていた。
「み、みんな! あれ!」
「俺」は大慌てでみんなを呼ぶ。
「はい? ってうわ、何ですかあれ……!」
「黒……まさか黒い水ですの?」
「それしか考えられんが、水らしからぬ動きだな」
皆口々に驚きの声を上げる。
ヒトギラの言う通り、水があんな風に山を越えてくるわけがない。
普通なら水は低い部分を通るはずだし、仮に山を乗り越えるほどの量と勢いがあるなら既にこの辺りにも水が来ているはずだ。
その上、水は山を下っているというのに速度を変えず、淡々と同じ調子で広がり続けている。
まるで布に付いた染みが大きくなるように、じわじわと。
「とにかく、先を急ぎましょう。これ以上の何かが起こる可能性もありますわ」
焦りを滲ませつつ、デレーは言う。
「エラさん、それで大丈夫ですわね?」
「……うむ」
「俺」はやや遅れた返事に違和感を覚えたが、深く追及している場合でもない。
ひとまず今は、デレーの作業を見守ることにした。
デレーが大壁に向き直り、斧を振りかぶる。
そして、石造りの壁が崩れる音がした。
――彼女の斧が、大壁に当たる前に。




