婚約破棄されたので?傷心旅行に向かう。 ~異変~
ちょっと雲行きが怪しくなって参りました。
夜の帳が下り街の喧騒も次第に眠りにつき始める時分。
喧騒が波を引くように静まり、宿屋の周囲には海からの潮風と微かな波音が囁いていてた。
そんな宿屋を伺う黒い影が一つ。
闇夜を味方につけて影が素早く宿の壁に取り付いた。
微かな壁の凹凸を足掛かりにスルスルと登っていく。
誰にも見咎められず、影は角部屋のベランダに取り付いて中の様子を伺う。
仄かに月明かりに照らされた部屋のベッドで少女が眠っていた。
影は少女の眠りが深いことを確認すると懐から小さな包みを取り出して中に包まれた粒子の細かい薬を窓枠の下の隙間から室内に吹き込んだ。
暫く様子を見ていた影は窓の鍵を外から器用に外すと音を立てないように、ソッと窓を開けた。
隣室に護衛の騎士がいると事前に知らされていたので影は慎重に事を運んだ。
窓が開き、風が部屋に舞い込んだがベッドに眠る少女は穏やかに眠り続けていた。
影は慎重に、だが素早くベッドに近づくと少女を肩に担ぎ上げた。
薬が効いているのか、少女はそこまでされても目を覚まさない。
影は少女を担いだまま部屋から出ると、鉤爪のついた縄をベランダの端に引っ掛けてスルスルと降りていった。
柔らかな下草の生える地面に降り立つと影は少女を一度地面に横たえて縄を回収した。
少女を再度抱き上げた影は静かに素早く宿屋を後にした。
影が壁に取り付いてから30分と経っていない素早い犯行だった。
そうして少女は宿屋から姿を消した。
その異変に気付いていたのは夜を照らす月だけであった。
翌朝、隣室で休んでいたカズマは少女の部屋の扉をノックしていた。
「おはようございます、フォーサイス様。お目覚めでしょうか?」
カズマは返事が無いことに異変を感じた。
今までカズマが声を掛けて返事をしないということは無かった。
「フォーサイス様? どうなさいました?」
扉をノックする音が段々と激しくなる。
それでも一向に返事をしない少女にカズマは踵を返してフロントに向かうと従業員に鍵を開けてもらった。
「フォーサイス様!?」
部屋に入ると窓が開け放たれていた。
その室内に少女の姿が見当たらない。カズマはベッドに手を触れると既に冷え切っている。
大分前にベッドから出たという事を示していた。
「一体どこへ…?」
カズマは呆然と呟くと開け放たれたベランダに出た。
外を見ても少女の姿は無い。
ベランダの手すりに手を付いて何か痕跡が無いかと調べているとベランダの端の手すりに違和感があった。
そこだけザラリとした手触りがしたのだ。
カズマは違和感があった所をよく調べると何かが引っ掛かった様な後が残されていた。
均等に走る三本の線。ベランダ。外からの進入?
そこまで考え付いてカズマはハッと何かに気が付いたように顔を上げた。
「お客様…お連れ様は…」
「少し出てきます。部屋はこのままにしておいて下さい。」
鍵を開けた従業員が不安そうにカズマを見ていた。
それはそうだろう。宿泊していた客が行方知れずになってしまっているのだから。
カズマは従業員を安心させるように笑みを浮かべると部屋を出て再度鍵を掛けさせた。
そして自身は宿から出ると少女の部屋の真下の下草の生える庭に向かった。
「…下草が倒れている」
柔らかな下草が倒れているのを見てカズマは小さく呟いた。
「…ここで一度降ろした? でも、そんなことをしたらいくらフォーサイス様でも暴れるはず」
それなのに、下草は倒れてはいたが地面に暴れたような跡は無い。
「…眠らせた?」
カズマは立ち上がると街の中でも比較的寂れている一角へ足を向けた。
身体の節々が痛い…ベッドってこんなに硬かったかしら?
ゆっくりと意識が浮上して身体の下が随分と固いことに首を傾げる。
もしかしてベッドから落ちたのだろうか?
それでも起きなかった私はどれだけ熟睡していたのだろう…
身体を起こそうとして、手が動かないことに気付き私はパチッと目を開けた。
「…どこ、ここ?」
全く見覚えの無い場所の地面に直接転がされていた私は呆然と呟く。
両手は背中側で縛られ、両足も足首の所で縛られていた。
「………」
私は地面に転がったまま耳を澄ませた。
どうやら近くに人の気配は無い。
不自由な身体で何とか身体を起こすことに成功した私はズリズリと這いずって壁に寄りかかると再度周囲を見回した。
どうやら私が居る所は使われていない倉庫らしい。
地面には埃が積もり、上の方にある明り取り用の窓からは外からの日差しが差し込み、埃がキラキラと舞っていた。
「誘拐、でしょうか…?」
一応、身分としては貴族なので営利目的の誘拐かもしれない。
だが、宿屋で眠っていた私を誘拐するメリットが見当たらない。
それに、朝になっている様子からカズマ様は私が部屋に居ないことに気付き探しているだろうと予想をつける。
しかし、いくら眠っていたとはいえ部屋から連れ出されても起きなかった自分は随分豪胆な性格になってしまったらしい。
「…それとも元々(前世)の性質が出たのかしら?」
「元々の性質って何のことだ?」
聞こえてきた声に私は驚きビクッと肩を震わせた。
いつの間にか倉庫の扉が開き一人の影が立っていた。
その声に私は眉根を寄せる。聞き覚えのある声だ。
それはそうだろう、声の持ち主は…元・婚約者様だったのだから。
のんびり生きましょう。のんびりね。