第八章 十二人の中では比較的ちゃんと話が出来るほう。
海がある。
遥か彼方に水平線を持つ、陽光に照らされた大海原だ。
風は弱いが海面は強く波を打ち、時折に泡沫の弾けが飛ぶ。
それは時たま、低空を漂うように飛行を続けるこちらにまでその飛沫を届けてきて、
「……つめて」
俺は今、陸地の見えぬ大洋を、風を受けて飛ぶリィンローズに抱えられて横断中だった。
ミハエル隊を退け、その際に負った怪我を治した俺は、早速ではあるが『あちら』の世界に戻る事を望んだ。
俺が己の世界に帰っていったのは、『軍略』や自身の存在が争いの種になると考えたからだ。また『軍略』が『神』として分離した以上、ただの人間であり、基本的にイレギュラーな存在である『転移者』は元の世界に帰るべきだ、と言う考えもあったのだ。
だが、ここに来て反乱が起き、『神』が討たれ、世界の平和が脅かされているのだと言う。
否、
ーー先に脅かしたのはむしろ俺の『軍略』だったな。
しかしそうだとしても、
――力を増しすぎた『軍略』には、何かしらの対策が必要、か。
ミハエル・ノーマンら『革命連合』がそれを模索していると言う話だが、その結論が俺の暗殺、と言うのであれば、やはり黙ってはいられない。
そうして俺は、こちらの世界に帰ってきた。
だが、
「……いきなり海とは……」
異世界転移。
なんとも格好付けた言い回しだが、ポイントがランダムで、かつその先の世界が八割を海で覆うものであるなら、まあこう言う事にもなる。
方向も位置も解らぬまま海へ出たため、今はとにかく陸地を求めて海上散策中だ。
「……忘れてたな。まさかいきなり洋上に出るとは。まあお前の『居城』で休憩は出来るし、やりようはあるが……」
「移動はどうにも、ね。私の『居城』は展開位置から動かせないタイプだし」
それを聞けば、如何にシャロが誇るあの『城』が規格外だったかが解る。
だがまあ、リィンは半分人間だし、そうでなくともあのような『居城』を持つ吸血種はそうそういない。歴史を紐解いて数人、とかそう言うレベルであるはずだ。
故に今は、移動の途中で時折休憩が入れられるだけで御の字。
全体的に娘頼りだし、彼女に脇腹を抱えられて飛ぶ今の姿はかなり情けないものではあるが、それはもう諦めることにした。
「パパが初めてこっち来た時はどうだったの? 運よく陸に出た?」
「シャロのスカートの中に出た」
「パパ……」
何故そこで頬を赤らめて目を輝かせるのかが全く解らん。
しかし、
「異世界転移、ってもっとこう、大それたものであったはずだが……」
「まあ、『アレ』が簡単なもので済んだのは、私とパパだけの裏技よ」
『アレ』とはつまり、リィンが用意した『扉』を潜ってこちらへとやってきた、その転移の手段の事だ。
何せ『扉』を潜るだけ。
通常とは、手間もコストも段違いに手軽な『異世界転移』だった。
それは、
「私は半分『あっち』で、もう半分『こっち』って生き物でしょ? パパにしたって、ほら、ママと色々やったじゃない。色々」
色々な。色々。
「で、その末に私が生まれた事で、ええと何て言ったかな。『準備』? てヤツが整って、『渡り』のハードルが大分下がってる、って事なのよ、きっと」
「……きっと?」
「全部クルーゼさんからの受け売りだから」
「ああー……」
懐かしい名を聞き、そうかアイツならその辺りも詳しいな、と妙な納得を得る。
――ん?
いや、待て。
「……あいつ、まだ現役なの?」
クルーゼ、とはかつて俺が率いた『軍』のおける仲間の名だ。
俺と別れた時点で丁度二十歳。それから百年経った、と言うのであれば彼は百二十歳になる……はず、なのだが。
「そりゃあもう。だってそれもパパの『軍略』の影響でしょ?」
「ん?」
「え?」
いや、
「……それはどう言う……」
言葉の意味が解らず、問いを作ろうとした。
しかしその前に、
「待って」
リィンが正面の海を見つめ、言った。
「何かあるわ」
リィンローズが見つめる先は、高く飛沫を作る波間、そのまた遥か向こうだ。
「ん――……」
吸血種であるが故の超視力。だが彼女にして『何か』としか言えないものが俺に見えるはずもなく、
「……リィン、お前さ、『竜翼』出せばもっと速く高く飛べるよな?」
吸血種が持つ、竜の特性を受け継ぐ無双の翼。
彼女はミハエル隊と戦った際も今も、どう言う訳かそれを出さず、無翼状態で飛行を行っている。
無論、エネルギー消費を抑えるため、と言われればそれまでなのだが、『居城』で休憩は行えるのだ。それをしない意味はない。
「そうすればその『何か』とやらも、と言うか島影とかも探しやすいんじゃないか?」
「あー……」
リィンは俺の脇を掴みなおしながら、何か言いづらそうに言葉を噤み、
「ちょっと、何て言うのかしら。私の『竜翼』ね、パパの血が混じったせいかな。パワーあるんだけど燃費が悪くて、すごく使いづらいのよ」
「燃費が悪い……って」
それは、
「どのくらい?」
「十分ごとにパパが血ぃ吸わせてくれたらイケるかも」
「死ぬって」
「勿論精液でも可よ?」
「………………十分置きに?」
「任せて。自信はあるわ」
何のだ。と言うか、
「……何か見えた、とか言ってなかったか?」
「ああ、うん。話してる間にちょっとずつ見えてきたわ。あれは……」
目を凝らし、
「……小船かしら?」
リィンの言う通り、波間にだんだんとその影を濃くしていったのは、一隻の小船だった。
黄土色の木材を使った、海釣りに使うにしても貧相な代物だ。
サイズは、多く見積もっても四人は乗れまい、と言う程度。この世界では珍しい事だが、少し高い波でも起きれば簡単にひっくり返ってしまいそうなものだ。
「……どっかから流れてきたか?」
「漂流者?」
だとすればこのまま見過ごす訳にもいくまい。
そうでなくとも、俺たちは何の手がかりも無いまま陸を探していたところなのだ。あの船がどちらから流れてきたかが解れば、少なくとも何かしら指針を立たせる事が出来るかも知れない。
「ちょっと見てみるか」
「あいさー」
言って、リィンが翼使わぬ飛翔に力を入れ、船の方へと進路を取った。
近づき、そして解るようになってきたのは、
「……何か載ってるな」
「腐乱死体かしら」
可能性はあるだろうがせめて白骨とか言ってくれ。
更に近づいていく。
「……マジで人型の何か、ではありそうね……」
「……せめて腐っていない事を祈ろう……」
陸地の影すら見えぬ大海原。そこを漂流する木製の小船。
そしてそこに載せられた人影が一つ、となれば、嫌が応にも先ほどのリィンの言葉が現実味を帯びてくる。
やがて船に打ち付ける波を音すら聞こえるようになってきて、
「……中々立派だけど……どうやら私の勝ちね」
もしかしてそれは胸の話か。いやそうではなく、ウチの娘が対抗燃やすと言う事であれば、
「女? 鎧姿の……」
いや、
「……シセル・スタッカート?」
小船の上に五体を晒し、大きな胸を呼吸のタイミングで上下させる、金の長髪の女性。
ランニングウェアのような格好の上に直でプレートアーマーを着込んでいるものだから肌の露出は多く、その鎧姿はひどく扇情的だ。
彼女は、俺達にとって既知の人物だった。
「あら、本当ね。シセルさん。パパの配下の。……て事は生きてるわね。安心したわ」
概ね同感。呼吸でなく人物で生死が判断出来るところがこの鎧女のすごいところだ。
現に今も、目を閉じたまま眉を歪め、
「う、うぅ……お、お腹すいた……」
などと気の抜けた事を言っている。
俺は呆れたように息を吐き、
「相変わらずだな、こいつは……ちゃんと仕事してるのか?」
「まあ、それなりに、ね。その証拠に今王都には食べ放題の店が一つもないわ」
それは何の証拠なのだろうか。
ともかく、
「……どうする?」
「何故パパの中に『助ける』以外の選択肢があるのか解らないけど……一応、ね? ほら、パパを補佐した『十二英雄』の一人なんだし」
「……仕方ねえなあ」
言って、俺はリィンの腕から解放されると、小船の上に降り立った。
やはり、と言うべきか、かなり狭い。シセルが船底に仰向けで寝転がっているせいもあって、俺が立つとほとんど余剰スペースがなくなってしまう程だ。
そして気付くのは、彼女が決して船旅や何かの過程で漂流者になったのではない、と言う事。
「……荷物の類がほとんど無いな」
「鎧と剣だけとか、極まってるわね。私ならパパのティッシュさえあれば大丈夫だけど」
それは『俺の持ってるティッシュ』と言う意味でいいんだろうか。多分違う。
俺は、シセルの様子を見て言う。
「……これは、やっぱ釣りに出たとか波に流されたとか、そう言うヤツじゃなく……」
「……島流し?」
最もしっくり来るものを、リィンが代弁した。
「……やはり……」
「パパ、パパ。『やはり』で自己完結して遠い目始めるのやめない? ほら、ね。英雄。十二英雄」
言ってる事がもっともなのだが、どうしても心がプラスに働かない。
「いやだって、リィン。こいつが昔、酒場で何やったか知ってるか?」
リィンは宙にふわふわと浮きながら彼女の顔を見下ろし、
「あ、ちょっと聞いたかも……なんかお酒の飲み比べ大会で一位になって殿堂入りした、とか?」
「……それ、誰から?」
「本人」
俺は、はぁ、と溜息を吐く。
「正確にはな、倉庫の酒全部飲みつくして出禁になったんだ」
え、と目を丸くしたリィンがシセルの顔を見て、
「いや……え? その、体積、とか……」
「リアルタイムで下から出してた」
「……流石に引くわー……」
武勇伝はともあれ、つまりこれはきっとこう言う事だ。
「こいつは、それと同じか同等の何かをやらかした。英雄と言う事もあり今までは見逃されてきたんだろう。だが遂に酒場及び飲食店経営の皆様方の堪忍袋の緒が切れ」
そして、
「……なんやかんやあって、着の身着のまま船に押し込められ、海へ流された、と……」
「うーん、個人的にはその『なんやかんや』の部分が一番気になってたんだけど」
でも、まあ、
「起こせば解るわよね」
「……そうだな」
俺は、腹を出して眠るシセル、その耳元へと口を近づけて、言う。
「……おい、シセル。シセル・スタッカート」
「うーん、駄目です、せめて四合……四合は炊いて下さい……駄目ならバゲットを付けて……」
何の夢だ。いやそうではなく、
「…………飯の時間だぞ」
ベタだが、
「……はいぃ!」
起きた。
「ご飯! ご飯はどこですか! 六合は炊いていてくれないと間に合いませんよ私騎士ですので!」
増えてる増えてる。
「お前は孫悟空か」
「て言うか起きるプロセス的にきり丸かしら」
お前の知識どこから来てるの?
シセルは、しばらくの間周囲を見回して飯を探していたが、
「……ゆ、夢? 海……はぁ、くぅ……なんと口惜しい夢を……」
一筋の涙を流し、拳を船底に叩き付けて歯軋りを始めてしまった。そんなに? そんなになの?
話が進まん。故に、
「……シセル。久しぶりだな」
俺は言う。
すると彼女はようやくこちらに気付き、
「…………うぇ?」
しばらくの間ぽかん、と口を開けていたが、やがて、
「……………………お、」
「お?」
じわり、と表情を歪ませ、
「………………おうさまぁ――――――!」
こちらに抱きついてきた。
彼女が着けた鎧ががしゃん、と音を立て、しかしその上からでも解る大きな胸がプレート越しに弾力だけを伝えてきた。
首に回された腕にも手甲が着けられているので、その端が肌を刺さないかと気が気でない。
「ちょ、シ……おい、危ねえ、と言うか痛い。鎧着けたまんま抱きついてくんな。いつも言ってただろう」
「ふーん、いつも言ってたんだぁ――。へぇ――」
シセルでなくリィンが言葉を伝えてきたが、何それそう言うのもあるのお前。
騎士が言う。
「うぉ、ごぶ、ぐぁ、あ、うぁ――――ん! ぅおうはは、は、ふぁ――――――――ん!」
何言ってるか解らん。
と言うか涙と鼻水がこちらの髪に付いて大変な事になっている。
「おい、シセル。シセル・スタッカート。落ち着け。大丈夫だ、な」
俺はそんな事を言いながらその顔を引き剥がしに掛かる。
しばらくそのまま泣いていたシセルだったが、やがて首に回した腕を緩め、互いの表情が解る程度には顔を離してくれた。
「ふぐ、うぅ――……、王様王様王様……ホントに王様です。ニセモノじゃないですよね? ガランさんの黒歴史言えますか?」
「口癖が『俺に関わるな』だった」
「本物ですぅ――――!」
何故かガランが被害を受けたし何故かリィンが空中でツボってるが、まぁそれはどうでもいい。
「……はぁ――。何か安心したらどっと疲れました……」
と、シセルは顔を伏せ、
「で、王様。ご飯はどこです?」
何でそう言うとこ冷静に覚えてるのお前。
ともかく、このような狭い船の上では落ち着いて話も出来ない。
故に、
「……リィン、お前の『居城』にシセルも入れられるか? ついでに船も」
「問題ないわ。しょっちゅう遊んで貰ってたしね」
と、シセルはそこでようやく宙に浮かぶリィンに気が付いたようだ。
「あ、姫様。やっほー、です」
「……やっほー、ね、シセルさん。うん、軽さが安心、と言う事よね」
二人はそのような事を言いながら、ひらひらと手を振り合った。
まぁ、挨拶はともかくとして、
「……休憩と、飯。それと話、だな。リィン。『居城』に食料、あるよな?」
「ええ、問題ないわ。媚薬の入ってないヤツね?」
何の確認だそれは。