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「なぜ、今まで黙ってたんだ」
頬を伝う熱い滴を払い、俺はゆっくりと大男に向き合った。
「そ、それは、その……。おぉおおおおりゅううううううううぅ!」
これではまったく話にならない。
大男は真珠のような涙をぽろぽろとこぼし、決死の形相でその苦しさを俺たちに訴えてくる。
賢明に抗っているのだろう。
肛門を決壊させようと勢いいさみ、苛烈な猛攻をかける濁流に。
もはや、俺たちの愚かさを両成敗などと言っている場合ではなくなった。 今、何よりも大事なのはこのゲリの極み男子を一刻もはやく何とかしてやること。
それだけだ。
そう……。
必然的に、俺たちはある選択を迫られていた。
「どうするね、お二方。この男のことを」
俺と優男に対し、静かに問いかけるご老人。
その意図を確認するまでもない。
彼が言いたいのは--
「……私の順番をお譲りします」
確かな決意のもと、その心意気は放たれた。
皆がその主、優男へと視線を向ける。
驚いたのも無理はない。
それは彼にとって、耐え難い決断だと思われたからだ。
「いいのかよ?」
ガテ男が問う。
優男は毅然と頷いた。
「お主まで番が回らんかも知んのだぞ?」
今度はご老人が尋ねる。
「構いません。今、もっとも助けを必要としているのは彼です。元医師として、排便優先順位を蔑ろには出来ませんから」
俺は足下が崩れていく感覚に襲われた。
ご老人の疑問ももっともだが、それ以上に、優男には引けない理由があると思っていたからだ。
今トイレに入っているのは少年だ。
ならば、次にトイレに入る者は、必然的に少年の座った直後の生暖かい便座に腰掛け、少年のうんこの上に自分のうんこを重ねることになる。
まさにクソとクソの甘美な口づけ。
優男にとって、まさに至高の体験になるはずではないか。
それを他者に譲るなど、そんな真似が彼に出来るなんて。
しかも、譲られた大男は下痢気味ときた。
少年のうんこなど、チーズフォンデュのようにとろとろにかき乱されてしまうに違いない。
この男は、それすらも受け入れる覚悟で順番を譲ろうとしているのだ。
苦渋の決断であろうことは想像に難くない。
「あんたは……」
「変態で結構。ですが、たとえ性的嗜好の道を外れようとも、人としての道だけは外れるわけにはいかない。変態には変態としての誇りがあるのです。それを誤れば、その者はまさしくゲスにして外道。……私は、そんなクソ野郎にだけは、決してなりたくないのですよ」
「っ……!!」
俺は自らの行いを恥じた。
いや、恥じたのは行いだけじゃない。
俺自身を、だ。
何が息子たちのためだ、笑わせる。
怒りに我を見失い、他者のために自らを犠牲にできる誇り高き漢を犯罪者だと断じてしまった。
浅はかな先入観と、身勝手な正義感。
そんな不確かで、独りよがりな虚妄を盾に他人を罵り糾弾してしまった。
そう……。
つまるところ、俺こそが本当のクソ野郎だったんだ。
それに気付いた瞬間。
俺はうなだれるようにして、その場に倒れ込んだのだった。
*
遠くにサイレンの音が聞こえる。
そろそろ年貢の納め時だろうか。
靄のかかった頭で、俺はそんなことを考えた。
場を包む静寂が、傷心した我が身に染みる。
同時に、堪えがたい便意が俺の腸を、そして尻を圧迫していた。
否、もはや便意などなどと言う生やさしいものではない。
耐え難い痛み。
体全体が悲鳴をあげているかのようだった。
おそらく、最たる原因はこの場の雰囲気に違いない。
感情に身を任せているときはまだ楽だった。
あらがうべき者、相対するべき者が他にいたから。
しかし一転、あらゆる問題が解決した今となっては、その相手は自分自身へと変化する。
すなわち懸命に便意を抑えようとする理性と、「もういいだろ、楽になれよ」と甘く囁く欲求との、文字通りの相克だ。
少年が戻り、大男が戦地に赴いてどれくらいの時間が経過しただろう。
ほんの数秒か、あるいはもう数分が経ったのか……。
正直、時間の感覚すら曖昧だった。
「ぐ……ぅ……っ」
漏れるため息。
波のように寄せては返す激痛が、内蔵とケツ筋を構成する細胞ひとつひとつを破壊していく。
座っていることさえ辛くなり、俺はゆっくりと体をタイルに横たえた。
こんな姿を家族が見たら笑うだろうか。
情けない夫、父親だと軽蔑するだろうか。
そんな感傷が脳裏に浮かぶ。
だが、その度に俺は必死に抗った。
洗濯槽の前、汚れたパンツを前に、悲しげな表情を浮かべる妻。
迎えに行った保育園、そこにいる園児たちに「あ、クソッタレのパパがやってきたよ」とからかわれる息子の姿。
その痛い痛々しい姿を、克明にイメージして。
そうだ。
俺には守るべき一線がある。
夫としての誇りがある。
父親としての矜持がある。
男としての意地がある。
なればこそ、諦めるな!
最後の最後まで戦い抜いてみせろ!!
そう、何度も何度も自分に言い聞かせる。
(大丈夫だ。まだ耐えられる。子供の時に言われただろう。やれば出来る子だと。そうだ、俺はやれば出来る子なんだ。便意などに負けるわけがない。俺の我慢は日本一……、いや、宇宙位一だ。ベストを尽くせ。こんなもの、大した便意ではない。ほんのちょっと肛門がむずむずするだけだ。すぐに楽になれる。大丈夫だ、大丈夫……。俺はうんこをしたくない、したくない、したくない、したくない、したくな--)
「アイル・バアアアアアアアアック!! 待たせたなッ! 諸君!! 俺はこの通り、勝負に勝ったぞ!! さあ、次は誰だ!! いざ往くがいい! 往って男をつかみとれぇええええええッ!!」
「なんじゃ、お主キャラがさっきと--」
「悪いなジイサン! 俺はあの辛く長い戦いを経て、いまや一端の男になった!! もう昔のうじうじなよなよしていた自分とはサヨナラしたんだよ! 今日こそが、俺の脱童貞卒業カーニヴァアアアア--」
ああ、うん。
悪いが今はツッコみ休止中なんだ。
そんな余裕なんてないんだよ。
むしろツッコむなら、俺のこのケツ穴に何か栓のようなものでも……。
ああ、違う。
こっちを見るな優男。
そういう意味じゃない。
俺は残念ながらノンケなんだ。
だから、そんな期待の入り交じったような目はやめて、さっさとトイレに--
いや、駄目だ。
これ以上、外の景色に気をもんでいる場合でない。
揉まなくてはならないのは臀部。
さすらないといけないのは腹だった。
俺は目を閉じ、自分の世界へと閉じこもる。
それが一番楽に、この地獄を耐え抜く方法だと思ったからだ。
(ぬぐ……あぁ……っ! くぉ……、この圧迫感……! 肛門が張り裂けそうだ……。この感覚……。妻に初めてを差し出した時以上の……!! くっ……、こんなことなら、あの時もっと大きなモノ、ペンはペンでもマッキーくらいのデカブツでよく訓練しておけば--)
もはや呼吸をすることすら苦しくなり、痛覚すら麻痺しそうになったその時。
俺はふと、奇妙な感覚にとらわれた。
理性を突き破らんと躍動する欲望、その波が最高潮に達するその瞬間。 何か別の力、いわば相反する別の波がやってきて、便意を相殺していくような不思議な感覚。
猛々しいクソの奔流を穏やかに包み込む、最高級トイレットペーパーのような優しい感覚だ。
何事だろう。
考えようにも、頭はまったく回らない。
ならばと、俺はもてる力を振り絞って、首を回した。
その力は、どうも俺の尾てい骨付近に作用している感がある。
そこに、何があるのか。
重い瞼をこじ開け、確認した先、そこにあった光景に、俺は思わず息を呑んだ。
「大丈夫ですか? 呼吸を楽にして下さい。いきんではいけませんよ。常に息を吐き続けるのです」
「ゴ、ゴッドフィンガー……、X……?」
「心配しないで下さい。あなたの便意はこの私が引き受けます。この私が、外へと必ず逃がします。だからあなたは、ただじっと耐えて下さい。あなたは今やひとりの妊婦。思い出して下さい。息子さんが生まれる前、あなたが奥さんにしてあげたことを。その時の奥さんの様子を」
これは……いったいどういうことだろう。
大男が排便を済まし、とうに個室に駆け込んでいたとばかり思っていた優男が俺のすぐそばいいる。
いや、それどころか……。
「ほら、息をゆっくり吐いて。無理に止めようとしては駄目です。便意から意識を反らしてください。あなたは今、風そよぐ春の草原にいます。そこには汚らわしいものは何一つありません。香るのは淀んだ臭気などではなく、透明感のあるすっきりとした草木の--」
彼はしゃがみ込み、俺の腹部に手を当てて。
穏やかな声で俺に語りかけてくる。
まるで子供の頃、枕元で絵本を読んでくれた母さんのような、慈愛に満ちた優しい口調で。
「あんた……。どうして……? 自分の番は……」
「言ったはずですよ。私は元医師です。順番には逆らえないと」
「そんな……。でも、それじゃあ……!?」
その時、俺はある信じられない光景を目撃した。
優男の額。
そこに先ほどまで浮かんでいた脂汗が、きれいさっぱりなくなっているのだ。
それだけじゃない。
あの辛そうな表情もなりをひそめ、むしろ清々しささえ……。
いや、待てよ。
まさか、そんな。
彼は、まさか……!!
その時、俺は直感した。
「あんた、もううんこを--」
俺の言葉に、優男は静かに頷く。
その顔は晴れやかで、いっぺんの後悔も浮かんではいなかった。
「言わないでください。これは私が自ら選んだ道です。事故でも、ましてや自暴自棄になったわけでもない。私が自ずから考え、望んだ。その結果ですよ」
「そんな馬鹿な……! 漏れたわけでも、漏らしてしまったわけでもなく、すすんで漏らした。それも自分から……?」
「“ここにいる全員の尊厳を守る” あなたの心意気、それを踏みにじってしまったことは確かに残念です。ここまで頑張ってくれた皆さま方も。ですが、それでも私は--」
とつとつと語る優男。だが、そこで思わぬ横やりが……。
「なに一人でかっこつけてやがる。こっちだってハナからそのつもりなんだよ」
吐き捨てるように、ガテ男。
「そうじゃとも。お主の考えくらい、はじめからお見通しじゃったわい。意識を失ってしまったことは、いささか想定外じゃったがな」
にこやかに、黄門……肛門さま。
「まあ、ギリギリまで悩んだんだけどねー。大変だったんだよ? あんまり早く出過ぎると怪しまれるしさ。でもしょうがないよね。“お父さん”のためだもん」
少し照れくさそうに、少年。
「それでもッ、俺らはやりとげたのだぁあああああッ!! たとえクソにまみれようともなああああああああッ!!」
暑苦しく、大男。
「やれやれ。これでは最初から順番などどうでも良かったわけですね。まったく、どの御仁も人が悪い」
「ケッ、黙れよ。こうでもしなきゃ、そいつは納得しなかったろうが」
ガテ男の言葉に、他の誰もがそろって頷く。
口元には笑みが浮かんでいた。
「冗談……だろう? まさか、みんなも……!?」
「本当はもっと早く貴方に譲れたのかもしれませんが、不測の事態もありましたからね」
「そう心配せんでもええ。たしかに漏らしはしたが、それも一部じゃ。さすがにすべてを背負えるほど、この老体も強くはないのでな。まあ、この男だけは別のようじゃが」
「やめてください、翁。私はただ、自分の心に従ったまでです」
「なんで……。どうしてあんたは、俺のためにそこまで……。俺はあんたのことを--」
「簡単なことです。あなたはそうするに相応しい人物、そう確信したからですよ」
「だから、それはどうして……」
もうほとんど声にならない。
穴の方も限界だ。
だが、それでも俺は聞きたかった。
どうして優男は--いや、彼だけじゃない。
どうしてみんな、俺のことをそこまで気にかけてくれるのだろう。
「難しいですが、簡単に言うなら“あなたをクソ野郎にするわけにはいかない”そう、思ったからです」
「のう、若人よ。お主は最初、件の張り紙を見て見ぬフリもできたはずじゃ。自分だけがのうのうと排便し、そしらぬ顔でトイレを出ていくこともできたはずじゃ。じゃが、そうはしなかった。それどころか、自分の便意すら抑えて、ワシらの前に姿を見せた。自らの誠意を見せるために。……そんなことは、誰しもに出来ることではない」
「でも、それは爆弾の威力が分からなかったからで--」
「そうかもね。でもさ、それでも他にやりようはあったはずでしょ。少なくとも、自分が一番リスクを背負うなんてマネ、僕はゴメンだよ」
「俺たちは、その……、あ、あなたに、すくわ……おぐぁああああああっ!! お、お腹がぁああああああ……。 も、もうダメぇええええええ--うむ、なんでもない!! すっきりだ!!」
「ったく、俺は別にそこまでテメェのことなんざ--」
ー
気がつけば、目元に何か暖かな感触があった。
それは筋になり、頬を通ってタイルに落ちる。
と、同時。胸にこみ上げてくるものが……。
「ほらほら、そう感情的になられては。……とにかくです。あなたはここにいる皆さんの命と尊厳を守るために真剣だった。いえ、それはうんこのことだけにとどまりません。翁のこと、少年のこと、そして私のこと。すべてにおいて真剣で、すべてにおいて全力だった。全力で願い、諭し、怒った。……あなたは立派な男性です。そして立派な父親であり、立派な大人です。そんなあなたをクソ野郎になんてできますか? 少なくとも、私には無理だ」
「俺は……」
「しっかりしてください。あなたの尊厳は私たちが守ります。……そこのあなた! 手を!!」
「しょうがねぇな……。おら、立てよ」
「さあ、私たちが個室まで運びます。そこであなたはしっかりケリをつけてください。己の戦いに。そして家で待つ家族のもとへと、純白のブリーフで凱旋するのです!!」