5
この日、俺たちは神の御業、その奇跡の目撃者となった。
排便間近の大腸のように張りつめた状況下、颯爽と現れた優男――もといゴッドフィンガー・X。
彼は銀縁の眼鏡越し、射抜くような眼差しで老人を見ると、なんの躊躇もなく右手をそのやせ細った体躯に掲げた。
俺とガテ男は言葉もなく、彼の動向を見守る。
ほどなくして、
「では、参ります。フンッ!!」
思わずケツを抑えたくなるようなかけ声とともに、光の早さで蠢くゴッドフィンガー・Xの指。
何をどうしているのかも分からない、まさになんとか神拳が如き圧倒的指圧の奔流が水洗トイレの放水にも匹敵する勢いで老人の体を責め立て、そして――
「かぁっ……!!!!」
老人はついに息を吹き返した。
この間、およそ十秒足らず。
その目にはきらびやかな往年の輝きが戻っており、心なしか血色もいい。
控えめに見ても、十歳ほどは若返っているようにも思えるほどだった。
「おいおい……マジかよ」
「これは……。まさか、あなたが神か……」
崇めるような表情で見上げる俺とガテ男に向かい、ゴッドフィンガー・Xは爽やかに告げる。
「術式完了。さあ次の方、心おきなく排便行為に勤しみなさい」
*
こうして、ゴッドフィンガー・Xもとい、優男の活躍あって、老人はなんとかこの世界に戻ってきてくれた。
なんでも溜めるに溜めすぎた鬱糞を解放した快感で、冗談抜きに逝きかけたらしい。
「危ないところじゃった。川の向こうに死んだばあさんが立っておってのう……」
しみじみと語る老人に相づちをうちながら、俺たちは次に控える少年を送り出す。
すでにここまで三分近くも経過していた。
残された時間はあまりない。
老人の危機が去った安心感も束の間、今度は迫り来る時間が俺たちの焦燥を駆り立てる。
「じゃあ、いって来るね」
この状況にケツ穴――風穴を開けるべく、ひとりの若い勇者が旅立った。
「頑張れよ、少年」
「任せてお父さん。僕、この戦いが終わったらまっとうに生きるんだ」
目をきらきら輝かせ一歩踏み出す少年を、俺は万感の思いで見送る。
ああ、我が息子よ。
お前もいつかは彼のように、自らの戦場を見つけるんだろうな。
その時を、その背中を。
今、この時のように見送れるよう、必ず俺は生きて帰るぞ。
そう思いながら。
「それにしても」
その声は、俺の脇から静かに上った。
振り向いた先にいたのは優男。
あごに手をあて、首を傾げながら、個室に入っていく少年の後ろ姿を何やら真剣な眼差しを見つめている。
やがて彼がドアを閉めたのを見計らうかのように、優男はしんみりと言葉を続けた。
「あの少年。実に可愛らしい顔立ちですね」
「ん? ああ、そうだな」
まあ、否定する余地はない。
確かに言われなければ女の子と間違えかねない容姿ではある。
「町中を歩いていれば、思わず目を引かれるでしょう」
「ああ」
「か細い体といい、小悪魔のような表情といい、なんとまあ可憐だ」
「……ああ」
「しかし、それにしてもです。そんな子がこれまで必死にうんこを我慢していたかと思うと、なんかこう――」
「…………なあ、あんた」
どうにも不吉な予感がして、俺は優男の言葉を遮った。
あくまで漠然とした不安だ。
何か根拠があるわけではない。
しかしそれは、どうにも便秘あけで切れの悪い一本糞のごとく、俺の脳裏にえも知れぬ不快感を植え付けているのだ。
あるいは、そう。
どれだけ洗ってもこびりついて離れない、すでに風化しかかった年代物のクソのようだとも言えるだろうか。
言葉を切った優男をよそに少し考えて、俺はその原因にたどり着いた。
思えば何故、あの時に疑問を抱かなかったのだろう。
これまでの経験上、医者が仕事を辞めるという話はあまり聞いたことがない。
給与はいいだろうし、待遇だってそれなりに恵まれているはず。
しかも彼はゴッドフィンガー・X。
神の指を持つ男だ。
病院側が簡単に手放すはずがない。
開業医なら話は違うかもしれないが、それならなおさら辞める必要など……。
どうにも解せない。
彼はどうして辞めたのだろう。
もしかして、辞めざるをえない事情があったのか。
それこそ、重大な何かがあって……。
額に嫌な汗が流れる。
そう言えばこの男、先ほど警察に対して妙に辛辣なことを言っていたな。
確か、悪魔のごとき連中とかなんとか。
普通、善良な市民が警察に抱くイメージはそこまで悪いものではない。
確かに不祥事はしょっちゅうだし、態度は高圧的。
たかだが一桁オーバーの速度超過で切符を切られた日には、思わず「お前の血は何色だこの野郎!」と叫んでしまったくらいにふざけた連中ではあるものの、それでも彼らをさしてそこまで悪辣な評価を下す人間はそうそいういないはず。
何か、そう思うにたる出来事――恨みでもない限り。
それだけじゃない。
個室に向かう少年の後ろ姿、というより尻を、こいつはどんな熱っぽい眼差しで見つめて――
その瞬間、全ての点が繋がった。
「おい、妙な真似をしたら承知しないぞ。この変態野郎」
俺の言葉に、優男は明らかに狼狽して首を振る。
「そ、そんな。私はただ……」
「黙れ。まさかあの張り紙、お前の仕業じゃないだろうな。便意に歪む、少年の顔を愉しもうとして――」
そこに、ガテ男からの思わぬ援護射撃が重なった。
「そう言えばそいつ、あのガキの顔を見るなり妙にソワソワしてやがったな。そん時はあまり気にしてなかったが」
「やはりそうか」
言葉よりも先に、俺の手は優男の襟元へと伸びていた。
ガテ男がそれを制そうとするのが、そんなことに構っていられない。
爆弾のことなどこの際どうでもいい。
何より許せないのは、無垢――でもなかったが、とにかく子供を罠にかけ愉悦に浸ろうという、その腐りきった性根だ。
もはや我慢ならん。
俺の心は今、憤怒の炎で燃えていた。
敢えてギャル調に言おう。
激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリーム(神)である。
「ま、待って下さい! 冤罪です! ぐ、苦しい……」
「おい、やめやがれ! それ以上やると――」
「止めるなガテ男ッ!! 俺は世の息子たち、その未来のために戦っているんだッ!! 彼らの安寧を守るためならこの手、例え血に汚すことも俺は厭わんッ!!」
「ぐ、ぐぐぅ……っ! わ、分かりました! 分かりましたよ!! 白状します! してみせましょう!! 確かに私はそういう嗜好の持ち主です!! ええどうですとも!! この際はっきりと! 恥じることなく宣言いたします!! 私は確かにショタコンです!! 美少年が三度の飯より大好きです!!」
「認めたな! この紳士の皮を被った変態め!!」
「ぐぅ、あ、で、ですが! ですがこれだけは申し上げます! 誇り高き美少年愛好家の矜持として、いくら己の性欲と性癖のためとは言え、このような犯罪まがいのことをしてまで私は――」
「ふざけるなよこの変質者! 貴様、涼しい顔して今までに一体何人の美少年たちをその毒牙にかけてきた! 一体何人のムスコたちを、ご自慢のゴッドフィンガーでヒートエンドさせて来たんだッ!?」
「そ、そんな夢のようなこと、私は妄想くらいでしか……っ! ム、ムスコを……ゴッドフィンガーだなんて……。ふ……ふふ……。うふふふふふ……」
「黙れこのクソ虫野郎! そのデレデレ笑顔、やはりお前が犯人だな!! おおかた、あだ名のXとやらも、男児の菊門を意識してのことだろう!! こっちは全てお見通しなんだ!! 違うと言うなら弁解して見せろ! だが言い訳と命乞いだけは断じて聞かんぞ!! そんなものは時間の無駄だ! 俺が聞きたいのはお前の悲鳴、そして懺悔の叫び、それだけだッ!!」
「だから、その手を離せってんだろうがッ! それ以上やるとマジで取り返しが……。おい、そこのお前! なにぼさっと見てやがるッ!! てめぇもさっさとこいつを止めろ!!」
「あ、あぅう。私は、その……。今、おぉおおおおおおぅ!!」
きりきりと締めあがる優男の首。
しかし、俺は自分の手を離すことを出来ないでいた。
次第に涙目を通り越し、青くなっていく優男の顔を見ながら、俺は怒りと憎しみのたけ、その全てを遮二無二ぶつける。
「本当に……っ! 私は……ぐぅ、知らないん……です!! あの天使――少年と会ったのも……っ、今日が初めて……っ!!」
力を緩めることなく、俺は必死の形相で弁明する男の顔をじっと見つめた。
嘘を言っているように見えない。
いや、騙されるな。
こいつは緊迫した状況下でも、平然と少年のケツを凝視するような変態じゃないか。
そうとも、断罪するは今、この時をおいて他にない!
腹の底にぐつぐつ沸き立つ怒りと憎悪に身を焦がしながら、俺は今、最後の一線を――
「もうその辺でよかろう、若いの。それ以上は、君の息子を悲しませることにもなりかねんぞ」
その落ち着いた、厳しくも優しい声色が、俺の心に一筋の理性を取り戻させた。
「お、翁っ……」
「じじい……」
気付けば、先ほどまで死の淵にいたご老人がすぐそばに。
彼は諭すような視線で俺を見ると、そのか細い手で血管浮き出るこの手に触れた。
「確かにこの男は自分の欲求に正直過ぎるのかも知れん。確かに変態じゃろう。確かに変質者じゃろう。確かに男児の菊門を意識し、ムスコたちをヒートエンドさせたい願望にとらわれた罪深きゴッドフィンガーじゃろう」
「お、翁……」
理由は分からないが、涙ぐむ優男。
「じゃが、それでも。この男は自分の便意を堪えてまで、ワシをこの世界に戻してくれた。ワシのために汗を流してくれた。真剣な表情で。祈るような眼差しで。そんな男が、果たしてこのような悪魔の所業をするじゃろうか。……ワシにはとてもそうは思えん」
体の熱がすーっと引いていくのを、俺は感じた。
「お主の気持ちは痛いほどによく分かる。我が子を、世の子供たちを想うその心、もう余命幾ばくもない老体として誇りにすら感じておるぞ。しかし、じゃからこそ。そんな心意気を持った漢が、激情に我を見失い、破滅する様を、ワシは見たくないのじゃ」
「ご老人……、俺は――」
全身を包んでいた緊張が途端に緩む。
胸の奥に、ある感情が芽生えつつあった。
まさか、俺はとんでもない過ちを……。
その疑念が、荒んだ心を締め付ける。
「俺はただ、息子たちのことを――」
「そうじゃろう。そうじゃろうて。お主は何も悪くない。いや、誰も悪くはないのじゃ。もし、この世界に悪があるとするならそう、個人的な感情で他者を貶め、拒絶しようとする狭量さ、そして先入観。そうした風潮そのものじゃよ。……分かるな? そしてお主も」
「お、翁……?」
「変態とは決して悪ではない。宇宙に誇るべき人類の歴史、まさに文化じゃ。このワシも、若かりし頃は空前絶後の大変態として、世を騒がせておった。じゃが、それでもな。誇りだけは見失わなかった。お主は先に言ったじゃろう、矜持と。なればこそ、なぜそれを始めに告げんかったのじゃ。少年と会ってすぐ、“私はショタコンです。あなたのような美少年が大好きです。だからチラチラと見てしまうかも知れませんが、悪意はないので気になさらず!”とでも言っておけば、こんな悲しい諍いは起こらんかったのじゃぞ?」
「た、確かに……」
静まりかえったトイレ内。
その沈黙を裂くように、俺は――
「っく……! 俺はッ! 俺はぁあああああッ! この日本を! この日本に住む子供たちの将来を!! く、うぁあああああああッ!!」
抑えられなかった。
俺は両膝をつき、後悔に震える。
優男を解放し、空になった両の手が、冷たいタイルを何度も何度も打ち据えた。
痛みなど感じない。
本当に痛んでいるのは、心の方なのだから。
背中に突き刺さる、男たちの視線。
だが、そこに哀れみや侮蔑、嘲りはないようだった。
感じられるのはただ、一抹のやるせなさとどこか暖かい感傷。
「これにて、一件落着――」
染み入るようなご老人――否、黄門様――いや、肛門様の声が、終幕を告げようとしたまさにその時、
「あ、あの!」
「あ、なんだよ? 今はお前に構ってる場合じゃ――」
「ず、ずっと……、我慢していたのですが、もうこれ以上は……。あっ……おおぅ……、おふぅうううううぅ!!」
ただごとではない雄叫びに、俺は思わず顔を上げる。
割って入った大男の様子は明らかにおかしかった。
汗をだらだら流し、顔面は真っ白。
いつかの老人以上の震えを伴って、今にも倒れそうな形相でこちらを見ている。
そう言えばこの男、さっきも様子がおかしかったような。
あの時は熱にあてられ、それどころじゃなかったが。
「どうしたんじゃ、お主」
「わ、私、実はぁ、はぁああううううううううっ!!」
「だから、なんなんだよさっきから! はっきり言いやがれ!」
苛立たしげに睨みつけるガテ男。
しかし、それまでなら体をびくっと震わせていた大男も、この時ばかりは――
「そ、そのうぅううううっ、私、あ、あぁあああああっ。あ、朝から――」
そして、俺たちは衝撃の告白を聞くことになる。
「げ、下痢気味なんですぅうううううううッ!!」
ああ、神様。
あんたはどこまで残酷なんだ……。