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一切の躊躇いも、羞恥もなく。
まるで「ちょっとコンビニ言ってくるから」的なノリで発せられた、少年のおそるべき宣言。
驚いたのは俺だけではない。
優男も、大男も、ガテ男でさえ。
誰もがみな、目を見開き、おののいた表情で少年を凝視している。
聞き間違いではないらしい。
いた、むしろそうであってほしかったが。
「君、自分が何を言っているか分かってるのか!?」
年甲斐もなく取り乱しそうになるのを、便意と共にぐっと堪えて、俺は少年に向かって問いかけた。
よく子供には大人に真似できない、軟便の如き柔軟な発想力が備わっていると聞くが、それとこれとは話が別だ。
柔軟な発想とは何をしても許される、ということではない。
定められたルールや倫理の範囲内を逸脱すれば、それはただの暴挙じゃないか。
そうとも、ここは法治国家日本。
いくら緊急事態だとしても、俺たちには最低限守らねばならない誇りがあるはず!
しかし、思いがけず荒げた俺の声にも、少年はいたって涼しい顔。
さらに戦慄のひとことを言ってのける。
「大丈夫だって。別に初めてじゃないから」
「なん……だと……!?」
その言葉に、男たちの顔が凍り付く。
まるで打ち上げられた魚のように、誰もが口をぱくぱくとさせていた。
「だって、急いでるんでしょ? なら、ひとりでも少ない方がいいに決まってるじゃん。だいたいさ、おじさんたちのした後にする僕の身にもなってよ。まだ中学生だよ。汚れるには早すぎるって」
「け、汚れるだぁ? おいガキ、てめぇ言っていいことと悪いことがあんだろ!」
違うぞガテ男、つっこむところはそこじゃない。
そもそも、どうせつっこむなら便器のほうに……などと考えている場合ではなく。
「だいたい、君は男だろう! それが女子トイレにこもり、あまつさえクソをするなど、もし何かあったらどうするんだ!! 間違いなく犯罪者の仲間入りだぞ!! ただでさえ、これから警察がやって来るというのに!!」
気付けば、俺もまた叫んでいた。
確かに少年の言い分はもっともだ。
待つものがひとり少なくなれば、確かに楽園は一歩近づく。
目標達成へのハードルは、遥かに低くなるだろう。
ただ、そのために犠牲になるものを考えろ。
この少年はまだ若い。
青春を謳歌している年頃だ。
よく子供は天使に例えられる。
汚れを知らぬ、無垢な存在だからだろう。
そんな天使を、己が身可愛さに堕天使へと変えていいのか。
そんな卑劣な大人になっていいのか。
答えは否。
断じて否だ。
そうだとも、男児をもつ父として!
俺には彼を止める責務がある!
「とにかく、君はちゃんとここでクソをしろ! 異論反論、すべて認めん!! 君もひとりの男なら、その大和魂をここでひり出せ!!」
しかし、そんな俺の決意もどこ吹く風で。
少年はうんざりしたように首を振る。
「だーかーらー。ようは見つからなけりゃいいんでしょ? 平気だってば。言ったじゃない? 経験があるんだって。ほら、僕こんな顔つきだし、意外と気づかれないんだよねー。まあ、確かにひとりで入ったことはまだないけどさ」
「ま、待て。ひとりでは? それはどういう――」
瞬間、俺は察した。
つまりあれだ。
うん、あれだよあれ。
間違いない。
アレがソレでナニがそういうことだろう。
いや、しかし……。
しかしだ。
あり得るのかそんなことが。
公衆トイレだぞ?
隣に誰がいるか分からない。
誰に聞かれるかも分からない。
そんな場所だぞ?
いや、あるいはそれすらも承知で。
その緊張感をもシチュエーションとして愉しむことのできる、剛の者なら……。
いやいやいやいや!
それはない!
絶対ない!
そんな中学生がいるものか。
いや、いてたまるかッ!!
完全に狼狽してしまった俺に向かって、少年はわざとらしく微笑む。
とても妖しく、扇情的な表情で。
それは紛うことなく嗜虐趣味者の笑い。
いつだったか、会社の接待で連れて行かれた紳士の社交場で、あんな笑顔を見た気がする。
ああ、あれはよかったな……。
特にあの……亀甲縛りだったか?
あれはなかなかに刺激的だったーー
などと言っている場合ではないだろう、俺よ!
理性を保て!
止めるべきは今!
校正させるは今をおいて他にない!!
そうとも!!
断じてそれだけは――
次の瞬間。
「そ、そんなふしだらな事! 全国のお父さんは許しませんよ!!」
俺はこれまでの人生で、間違いなく最大級の雄叫びをあげていた。
*
「まったく、最近の若者はどうなっているんだ」
誰に聞かせるでもなく、俺は大きな息を吐く。
あのやりとりから後、俺は精根尽きかけながらもなんとか少年の説得に成功していた。
手強い相手だった。
一歩間違えれば、危うく丸め込まされそうなほど。
特に某アイドルグループの花形メンバーとの逢瀬の記録ムービーを交渉の条件に出してきた時などは、さすがに肝が冷えたものだ。
しかし俺は勝利した。
全ては使命感の賜か。
いや、違うな。
これは父親の矜持の勝利だろう。
当初はあーでもないこーでもないと、のらりくらり逃げ回る彼であったが、
「ごめんなさい、お父さん。僕、もう淫行は控えるよ」
今ではすっかりこの調子。
どうやら完全に改心したようだった。
まあ、当然だろう。
全国のお父さん代表として、ありとあらゆる知識を動員し、熱血指導したのだから。
それこそ、命の尊厳からオレ流最強ONA禁術まで。
「お父さん、僕また真っ赤なさくらんぼに戻れるかな」
「ああ、戻れるさ。君なら」
笑顔を交わし、俺たちは誓い合う。
またひとり、青少年の未来を守ることができた。
その達成感は何にも代え難いもの。
例えこの結果、努力の甲斐なくクソ野郎になったとしても、俺は後悔--
いや、何をセンチメンタリズムに浸っているんだ、俺は。
危うく緩みかけた涙腺と肛門括約筋を引き締めた、まさにその時である。
「あ、あの……」
おどおどした声で、大男が切り出した。
「どうした?」
聞き返した俺に、肩をびくつかせる大男。
その唇は真っ青で、額中に冷や汗が浮かんでいた。
まあ、確かにこれだけの時間うんこを我慢していたら、こうなるのも仕方ないのかも知れないが、それはともかく。
「おじいさん、長くないですか?」
そう言えば。
老人が個室に入って、すでに二分近く経過している気がする。
嫌な予感がした俺は、ドアを叩いて呼びかけた。
「おじいさん!? どうしました! 大丈夫ですか!?」
返事はない。
これは、まさか……。
嫌な予感が背筋を駆ける。
「おい、アンタ! それとお前も!!」
ほとんど無意識のうち、俺は大男とガテ男を呼び出していた。
「ドアを蹴破るぞ!!」
「え……?」
「おい、いくらなんでも乱暴すぎ――」
「黙れッ! 俺は我が身可愛さで言っているんじゃない!! 早くしないとおじいさんの身が危ないんだ!!」
その言葉を発した途端、ふたりの顔が青ざめる。
どうやらまったく予想していなかったわけではないらしい。
当然か。
あの忍術の如き質量を伴った残像を見た者なら、誰でもそう考えるに違いない。
みなまで言う必要など最早なかった。
瞬く間に俺の両脇へ駆け寄った大男とガテ男。
呼吸を合わせ、ひと想いに--
「いくぞ!? いいか、ケツはしっかりしめとけよ!! せーのッ!!」
果たして、けたたましく鳴り響く破壊音の中、俺たちの目に飛び込んできたもの、それは、
「きゃ、きゃあっ!!」
「じいさん……」
便座カバーにもたれ掛かるようにして鎮座する、やせこけた老人の姿だった。
その表情はとても安らかで、思わず手を合わせたくなるほどに一点の曇りもない。
「く、手遅れか!? いや、まだだ、まだ諦めるなッ!!」
誰よりも自分自身に向けて、俺は言葉を投げかける。
いや、俺だけじゃない。
「おい、じいさん! こんなところで逝くんじゃねぇ!! あんたにはまだやり残したことがあんだろ!! せめてこの戦いの結末を見届けるまで勝手にはくたばんな!!」
ひせるようにして、ガテ男も叫んだ。
老人の肩に手をかけ、前後に激しく揺さぶりながら。
反動で後ろのタイルにガンガン当たっている気もするが、そんな些事はどうでもいい。
とにかく今は――
「どいて下さい」
緊迫した状況の中、響いたのは場違いなほどに涼しげな声だった。
振り向いた俺の前にいたのは優男。
いつの間にそうしたのか、ワイシャツの第一ボタンは開き、スーツの袖は二の腕の辺りまでまくられている。
穏やかな表情とは対照的に、その姿は厳とした威圧感に満ちていた。
いやまあ、心なしかふるふるしている気もするが、それはおそらくうんこのせいだろう。
今さら気にしてもしょうがない。
「あんた、一体……?」
「なんなんだ、急によ!?」
揃って聞き返す俺とガテ男に対して、優男は静かに答えた。
「私はかつて医者でした。今は故あって身を引いていますが、かつてのあだ名は――」
俺の向かいで、ガテ男がはっきりと息を呑む。
間髪入れず、優男は名乗りをあげた。
眼鏡のブリッジを、二本の指で持ち上げながら。
「ゴッドフィンガー・X」
「ゴ……、ゴッドフィンガー・X……!!」
感嘆するガテ男に、俺は尋ねる。
「知ってるのか、あんた?」
「初耳だ」
この出会いは偶然か、果たして必然だったのか。
今、俺たちの命運は、神の指に委ねられようとしていた。