表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/8

「何をしているんだ!」


 立ち上がるなり、俺は吼えてた。

 よほど驚いたのか、大男は「きゃあ!!」と声をあげてとびずさる。

「やはり乙女だ!!」と叫びそうになりのを堪えて、俺は男に向き合った。

 すでに電話は切っているようだ。


「今どこに電話していた!?」

「ど、どこって……」

「どこに電話していたのかと聞いているんだ!」


 よほど怯えているのか、それとも迫り来る便意のせいかは分からない。

 大男はすっかり狼狽して、胸の前で祈るように両手を組み、おろおろと震えている。


「け、警察……です」


 やがて、彼はおそるおそるといった調子でそう口にした。

 俺は足元が崩れ去るような衝動に包まれる。

 よりによって警察とは……。


「爆弾のことを言ったのか?」

「え……、えっと」

「言ったのか!? どうなんだ!?」

「は、はいぃいいいい! い、言いました!!」

「向こうはなんて言っていた」

「す、すぐ行くから、絶対触らずその場にいるようにって」


 まあ、当然そうなるだろう。

 勝手に触れたせいで爆発でもされたら大事だし、かといって退避させたら爆弾を見つけた状況も聞き出せない。

 向こうが出せる指示としてはそれが関の山だ。

 その程度のことは俺にだって予想がつく。

 だからこそ俺は、あえて通報しなかったのだ。

 警察が来るという意味を、そこから想定される事態を、予測できていたから。


 大男の言葉に、優男がはっとしたように俺を見ている。

 彼はどうやらことの重大さに気付いているようだった。


「何か問題なの? おじさん」


 沈黙を裂くように、少年が首を傾げて上目遣いで問いかける。

 大男のものとはまた違った意味で、妙にあざとい仕草だ。

 おじさんと呼ばれたことには少し傷ついたが、それは心にしまっておくことにした。


「大問題だ」


 俺の言葉に、少年と大男、老人、ガテ男までもがこちらを見る。


「いいか? ここから最寄の警察署までどのくらいの距離があると思う。車で来たとして、何分くらいかかるか分かるか?」

「うーん。十分くらい?」

「いや、連中が本気を出せばもっと早い。おそらく五分くらいでここに来る」


 俺は努めて冷静に答えた。

 別に警察の内部事情に詳しいわけじゃない。

 緊急車両ならそれくらいの時短は可能だろうという、大雑把な予想に基づいてである。


「それがどうしたというんじゃ?」

「よくお考え下さい、おきな。ここに警察が来たとして、それで私たちはどうなりますか。のんびりとうんこをさせてもらえると思いますか?」


 俺の言葉を待たずして、優男が老人へと問いかけた。

 翁とか、正直なところ時代劇か竹取物語くらいでしか聞いたことはないが、まあスルーしておこう。


「おそらく、そんなことはさせてもらえないでしょう。彼らは国家公安。法と秩序、なにより自分たちの面子のためなら、個人の尊厳パンツなどなんとも思わない鬼畜――恐ろしい組織です。そんな奴らが、私たちを簡単に解放すると思いますか? 間違いなく長時間にわたり事情を聴取されるでしょう。そうなったら私たちの我慢も――」


 その瞬間、男たちの顔が凍りつく。

 どうやら皆までいわずとも察してくれたらしい。


「ジ・エンドだね」

「なんてこった……!」


 男たちの溜息が空しく響いた。

 トイレが重苦しい緊張に包まれる。

 優男のフォローは効果覿面だった。

 若干、私怨がこもり過ぎている気がしないでもないが、それはともかく。



「……じゃあなおのこと、こんなところでちんたらしている場合じゃネェだろ!」


 生まれた痛々しい沈黙の後、真っ先に声をあげたのはやはりガテ男だった。

 彼は我先に個室へ駆け込もうと足を踏み出す。

 だが、俺はそれを引き止めたりしなかった。

 そもそも、俺の後に並んでいたのはこいつだ。

 それに、もう分かってくれているだろう。

 クソにかける俺の想いを、命の意味を。


 だからその背中に聞こえるように、そしてその場にいるすべての男に聞こえるように、俺は問う。


 その覚悟と意志を。


「最後にこれだけは確認したい。いいか? 俺たちには最早一刻の猶予も無い。俺たちが命と尊厳パンツを守るにはただひとつ。可能な限り早く排便を済ませ、水を流さず次の者へと交代する。これだけだ。だが、ことは簡単じゃないぞ。後に並んでいた者ほど、苦しい戦いを強いられる。もしかしたら順番が回ってこないかもしれない」


 俺の言葉に、後方に並んでいた少年と大男に険しい表情が混じる。

 そう、この戦いは後続の者ほど圧倒的に不利だった。

 制限時間においても。

 溜まりに溜まった他人のクソの上に座らなければならないという、精神的苦痛メンタルダメージにおいても。

 だが、それでも――


「それでも、俺は逃げない。必ず最後までここで待つ。そしてお前たちのクソの上に、最後のクソを置いてやる。モンブランケーキの上に鎮座する、あのでかい栗のようにな。しかし……そうは言っても、俺は強制なんかしたくない。これはそれほどまでに過酷なミッションだ。やるかやらないかは各自が自分で決めてくれ」


 しん、と静まり返るトイレ内。

 少しして、老人がにやりと笑んだ。


「どうやらそんな腰抜けは、ここにおらんようじゃの」

「みんな……」


 誰もが硬便のように固い決意を浮かべ、俺を見ていた。

 そうだ、俺たちならやれる。

 俺は確かな手ごたえと同志を得たという喜び、そして襲い来る便意に打ち震えながら、頭を下げた。





「じゃあ俺からだな」


 先鋒、ガテ男。

 彼はこちらに意味深な笑みを向けると、颯爽と個室に消えた。

 その表情に言い知れぬ不安を感じ、俺は眉をひそめる。

 そう言えば、先ほど実力行使に出たことについて、まだあいつに謝っていない。

 ひょっとするとガテ男は俺のことを恨んでいるのではないだろうか。


「気になりますか、彼のこと」


 内心の動揺を悟ったかのようにかけられた声。

 振り向くと、優男がなんとも不憫そうな表情で俺を見ていた。

 彼には先刻、トイレの入り口に「使用禁止」の張り紙をするよう頼んだばかりだ。

 どうやら無事に仕事にんむをやり終え、仕事うんこをするために戻ってきたらしい。


「ああ。さっきはちょっとやりすぎたからな」

「まあ、仕方ないとは思いますけどね。あなたもそれだけ必死だったのでしょうし」

「だが、向こうがそう思ってくれているとは限らない。もしかしたら、俺に恥をかかせようと――」



 言いかけたその時、




 ギィ、ガチャ


 重い音と共に、個室のドアが開いた。

 中からガテ男が歩み出てくる。

 俺は思わず、自分の腕時計に目をやった。


 バカな。

 あいつが中に入ってから、まだ十秒と少ししか経っていない。

 ズボンやパンツの上げ下げの時間を減算すると、実際にふんばれる時間はごくわずかだ。

 そんな速さで用を足し、ケツを拭いて外に出ることが可能なのか?

 しかも、先ほどまでの様子を見るに、相当我慢していたようだが。


 周囲に視線を巡らす。

 他の男たちも皆、俺と同様に戦慄の眼差しでガテ男を見ていた。

 しかし当人は、そんなことを意に介した風も見せず、


「チッ、あんまり出なかったぜ。せっかく誰かさんに一泡吹かせてやろうと思ってたんだがな」


 わざとらしく悪辣な笑みを浮かべてそう言った。

 そのまま俺の横を通り過ぎていくガテ男。

 去りゆくその横顔と後姿を見て、


「お前……!」


 俺は思わず痛くなるほどに、両の拳を握り締めていた。



 そういう……ことか。


 くそ、何が「あんまり出なかった」だ。

 いかにも“まだ我慢してます”ってな苦しい顔をしやがって。

 俺が気付かないとでも思っているのか。

 お前がどれだけ必死にケツを引き締めているのか。

 どれだけ本能に抗って、無理やり笑みを浮かべているのか。

 全身がピクピク震えているじゃないか。

 作業ズボンが皺になるほどケツに食い込んでるじゃないか。

 まだ腹に残っているんだろう?

 まだ全力を出し切ってないんだろう!?


 何か言おうと一歩踏み出した俺を、優男がそっと引き止める。

 その目は「彼の決意を無駄にするな」と俺に言っているようだった。


「ほら、行けよジジイ」


 あくまで強気を貫き、ガテ男はトイレの入り口へと進んでいく。

 正面から照り入る日を浴びて、その姿は文字通り光り輝いて見えた。

 まさに英雄。


 だが――


「……ん?」


 ガテ男は何か思い出したように立ち止まると、そのままこちらに戻ってくる。


「どうした?」


 俺の言葉に、ガテ男は震える唇で薄笑いを浮かべ、


「なに、テメェが本当に覚悟を決めてんのかどうか、最後まで見てやろうと思ってな。か、勘違いするなよ。俺はテメェの鼻を明かしてやりたいだけなんだからな!」


 挑発するようにそう言った。


「……ふっ」


 その言葉が俺の闘争本能がまんに火を点ける。

 おそらく彼なりの激励のつもりなのだろう。

 気が付くと、俺もまた笑っていた。

 まったく、どこまでも強情な奴だ。

 いいさ、やってやるよ。

 お前の排便けついを無駄にはしない。


 俺はあえて口にすることなく、心の中で感謝を告げた。





 次、ご老人の番。


「さて、若人たちの意気に応えるとしようかの」


 まるで歴戦の勇士のごとき気迫を滾らせて、彼は死地へと歩き出す。


「無理はしないで下さい」

「翁、武運長久なることを」

「早くしてよねー」

「が、頑張って下さいね」

「……俺の作った時間を無駄にすんなよ、ジジイ」


 その背中を、俺達は精一杯のエールで送り出していた。


「うむ。齢八十にして辿り着いた境地、即ち老獪さというものを、お主らに見せてやるわい」


 もはや分身しているのかと疑うほどに、尋常じゃなく震えているご老人。

 うんこ云々以前の問題として、俺はその立ち姿に確かな不安を感じていた。

 だが、そんな心配もいらぬ世話というように、歳を感じさせないしっかりとした足取りで、彼は個室へと進んでいく。

 その背中に、俺は燃える日の丸を見た気がした。



 事件はその直後に起こる。

 ゆっくり閉じるドアを見送って、


「あのさ」


 おもむろに切り出したのは少年だった。

 視線を向けた俺の目をじっと見て、彼はこともなげに衝撃のひとことを放つ。


「僕あんまり我慢できそうにないし、隣の女子トイレでしてくるから」

「な、に……!?」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ