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 外に出るなりまず俺の耳に飛んできたもの。

 それは節々から激しい苛立ちのほとばしる悪態だった。


「やっとかよ。ったく、後につかえてんだからちっとは考えろ、愚図が」


 声の主はガテン系の男(呼びにくいのでガテと呼ぶことにしよう)。

 彼はその風体のままに荒々しい口調と態度で、俺を腹立たしげに睨み付ける。

 いや、口に出さずとも。

 その場にいる五人の男全員が、俺に対して好意的な感情を持っていないであろうことは、向けられた視線から容易に想像がついた。


 無理もない。

 多分俺が逆の立場でもそうするだろう。

 何しろ今の彼らは、自らの尊厳パンツを汚さぬため、おのが本能に抗っている誇り高き闘士なのだ。

 自分だけは大したことないというような表情の裏で、さぞや過酷な戦いを繰りひろげていることは想像に難くない。 


 俺はまずケジメをつけることにした。

 実が出ぬよう最新の注意を払い、可能な限り深々と頭を下げる。

 そしてケツではなくのどの奥から搾り出すように、「待たせてすまなかった」と口にした。

 だが、返事は無い。

 咳払いとゲーム機のボタンを押す音だけが冷たく響いた。

 俺が犯した「時間の冒涜」という罪は、それほどに重かったのか。

 やはり抱かれている印象は最悪のようだ。

 もう少し早く尻を収めるべきだったと、心の底から反省する。


「いいからどけよ」


 沈黙の後、聞こえてきたのは吐き捨てるようなガテ男の声だった。

 彼は言うなり、ドアの前に立つ俺を押しのけようと強硬に進み出る。

 全身を身震いするほどの緊張がはしった。

 そのせいで危うく肛門が緩みそうになるが、なんとか踏ん張り我慢する。


「待て! 俺の話を聞いてくれ!」


 咄嗟のことに、俺は自分でも驚くほどの大声をあげていた。

 ただならぬ気配を感じたのか、ガテ男は訝るような目を俺に向ける。

 そしてそれは、他の男たちも同様だった。

 思わず腰が引けそうになったが、ケツを締めていたおかげだろう。

 俺はなんとかその場に踏みとどまることができた。


 落ち着け、冷静になれ。

 心の中で何度も呟く。

 いままでのことはもう仕方が無い。

 しかし、ここからはひとつのミスと油断が命取りになる。

 努めて平静さを装って、俺はゆっくりと口を開いた。


「今、個室の中でこんな紙を見つけた」


 そしてその場にいる全員に見えるように、先ほど剥がした張り紙を頭上に掲げる。

 それを目にした男たちは、揃って目を丸くした。 


「こいつをどう思う?」


 しかしその後、俺の問いかけに対して彼らが浮かべた表情は、それぞれ違ったものだった。


「爆弾……?」


 セールスマン風の優男が、明らかな疑念を込めてそう呟く。

 彼はあくまで冷静だった。


「流せば爆発するって……」


 次に警備員らしき大男が、怯えた様子で上ずった声をあげた。

 どうやら図体の割に気が弱いらしい。


「いや、冗談でしょ」


 そして笑い飛ばすように、中学生くらいの美少年は顔を伏せる。

 こんな時にもゲームかよ。


「で、お主はそれを信じるんか」


 老人が静かな眼差しで俺を見つめた。

 震えているのは、便意のためかそれとも歳か。


「アホらしい。こっちは急いでんだ。おら、どけよ」


 そしてガテ男。

 わかっていたことだが、やはりこの男は話を聞くつもりがないらしい。


「待て、まだ話は――」

「ふざけんな! 急いでるってんだろ!!」


 止める声も聞かず、ガテ男は怒号と共に前に出た。

 そして強引にでも押し通ろうというのか、威嚇するよう腕を振り上げる。


「どうしても行くつもりか?」

「当たりめぇだ! 早くしねぇと漏れそうなんだよ!!」


 あまりの剣幕に、俺は思わず後ずさった。

 しかしここで引くわけにはいかない。

 気を強く持ち、懸命に訴える。


「そうか。どうしても言うなら止めはしない。だが、水だけは絶対に流さないでくれ」

「ふざけんな! んな汚い真似が出来るかよ!」

「今の張り紙を読まかったのか!? 大爆発だぞ!?」

「イタズラに決まってんだろうが!!」

「この……っ、わからず屋が……!」

「そりゃテメェだ! とにかくそこを……」


 どこまでも話を聞こうとしない男だ。

 俺は歯を食いしばる。

 ならば――


「ならば力ずくでもその蛮行、止めさせてもらうぞ!」


 刹那。

 俺は振り上げられたガテ男の腕を掴み、間接を極めていた。

 昔かじった程度の柔道が、こんなところで役に立つとはな。


「いてててててッ!? お、い……何すんだテメェ!!」


 痛さを我慢するように歯を食いしばり、ガテ男は目を剥いて俺を睨んだ。

 突然のことに騒然とする男たち。


「お……いっ! お前ら、何ぼさっと見てんだ!! 早くこいつを……引き剥がせッ!!」


 自力でどうにもできないことを悟ったのか。

 ガテ男は後ろに立つ男たちへと助けを求める。

 反射的に俺は大男へと視線を向けていた。

 あれほどの体格の男に力ずくで来られたら、さすがにまずい。

 最悪、押さえつけられている間に俺の我慢が限界を迎える可能性もあった。

 だが……、


「え、えっと、その……」


 大男は止めるどころか両手を胸の前できゅっと握り、ただオロオロとするばかり。

 その可憐な動作に、「いや、来ないのかよ!」と突っ込むより先に「乙女か!!」と叫びたくなったが、なんとか耐える。

 結局、間に入ろうと一歩踏み出したのは優男だった。


「喧嘩は止めてください」

「だったら俺の話を聞け!」


 その彼を制止するように俺は吼える。

 正直なところ手を出すつもりはなかったが、ここまでくればもう後に引けない。

 まずはターゲットをガテ男に絞った。


「あんたもだ! 個室にかけこみたい気持ちはよく分かる! 辛いよな。苦しいよな。早くその溜めるに溜めた大きいブツを、心の、本能のおもむくままぶちまけたいとケツがむずむずしてるんだろう! よく分かるよ、俺もそうだった! だが、それでも! 俺はこんなところで死にたくないんだ!!」


 恥を耐え忍び、俺は思いのたけを全力で打ち明ける。


「ぐ……、ワケのわからネェことをゴチャゴチャと!」


 それでもガテ男は譲らなかった。

 なんとか自由になろうと、極められた腕へと無理むっちゃくに力を込める。


「この……っ! おとなしくしろ!! 聞こえなかったのならもう一度言ってやる! いいか!? 俺はこんなところで死にたくないんだよ! 確かに悪質な悪戯だという可能性はある。だがそれをどうやって証明する!? 試しに流してみるか!? もし爆発した場合、お前は真っ先にあの世行きだぞ!」

「う……うるせぇ……っ! 何と言われようが、俺は行く……っ! 行って……クソをするんだぁああああッ!!」

「どこまでも……強情な奴だ……ッ!!」


 本能の赴くまま、ガテ男は個室に向かおうと足を踏ん張った。

 恐ろしいまでの執念を感じる。

 細胞全てがクソに向かって突き進んでいるかのような。


 しかしそれは俺とて同じだ。

 この男をここで離せば、俺は、いやこの場にいる全員の命が危ない。

 もてる限りの力を腕と臀部に振り分け、そして叫ぶ。


「冷静に考えてみるんだ! そして思い出せ!! お前にも家族がいるだろう。友人がいるだろう。その人たちをこんなことで悲しませるのか? その人たちを残して、お前は便器と心中するのか!?」


 一瞬、ガテ男の力が弱まるのを感じた。

 そうだ、残される者のことを考えろ。

 それでもお前はうんこをし、水を流すのか。

 それほどまでに、うんこを流すことが大事なのか?

 それはまるで、自分自身に言い聞かせているようでもあった。


「みんなも聞いてくれ。俺には今年で二歳になる息子がいる。そして妻のお腹には、今ふたつめの命が宿っているんだ!」


 その瞬間、男たちの顔色が変わる。


「マジで?」

「なんということでしょう……」

「そんなことが……」

「ナンマイダブナンマイダブ……」


 そしてそれは、今の今まで必死の形相で抵抗していたガテ男も同じだった。

 はっとしたように目を見開き、神妙な面持ちで俺を見る。


「だからこそ、俺は生きて帰りたい。いや、帰らなければならないんだ! 頼む、俺の話を聞いてくれ……!」


 次第に脱力していくガテ男の腕を解放しながら、俺は崩れるようにタイルにしゃがみ込んだ。

 情に訴えるつもりなどない。

 しかし声に出したせいだろうか。

 脳裏に浮かぶ家族の顔と声が、俺を激情へと駆り立てた。

 この手に触れた妻の温もり。

 愛らしい息子の笑い声。

 モニターに映った、まだ見ぬ娘の小さな鼓動。

 ありとあらゆる家族の記憶が、怒濤となって心を震わす。

 熱い滴が目許から溢れ、頬を流れる。

 ほとんどひせるように、俺は訴え続けた。


「無理を言っているのは分かってる。でもどうか……! どうか俺に協力してくれ! 個室に入るなとは言わない! 便器に座るなとも言わない! クソをひるななど、口が割けても言うものか!! だがどうか! どうかトイレの水だけは……! 水だけは流さないでやってくれ! 頼む!! この通りだ!!」


 気付いた時には、頭部に冷たい感触があった。

 そう俺は感極まる余り、タイルに膝をつき土下座していたのだ。


「俺のことが信じられないなら、便器の中を覗くといい! 俺はまだ、ただの一ミリだってクソをしちゃいない! これが俺の誠意だ! 決意だ! 最後になってもいい! いや、最後までこの戦いを見届け、生きて帰るという、覚悟の証だ!!」


 ゴク、と誰かが息を飲んだ。

 おぉ、と誰かが驚嘆した。

 ザッ、と誰かが後ずさった。


 それでも俺は頭をあげない。

 土下座くらいなんだ。

 命と尊厳パンツを失うことに比べたら、安っぽいプライドひとつどうってことない。

 俺は額をのめりこますほどにタイルに押しつけ、ただひたすら気持ちを伝える。

 突き出したケツ穴から大事なモノが零れないよう、細心の注意を払って。



 やがて。


「顔を上げてください。父親が、これから新たな命を育もうという方が、そう簡単に頭を地に伏せるものではありませんよ」


 かけられた優しい声と、肩に触れた暖かな感触に、俺はゆっくりと顔をあげる。

 すぐ目の前に、軟便のごとく柔らかに微笑む優男の顔があった。

 こめかみをピクピクさせ、口元をひくひくと震わせているのは便意のためか。


 優男の言葉に続くように、


「お主の覚悟はよう分かった。これは皆で協力して、この難局を乗り越える他あるまいて」


 そのすぐ側に控えていた老人もまた、プルプルしながら諭すように静かに告げる。

 彼の尋常でない身の震えは俺に別の危険を予感させたが、今はあまり考えないことにした。


「ようするにさー、水流さなきゃいいだけでしょ? 簡単じゃん」


 少年は気だるそうな声でそう言い、


「……チッ」


 ガテ男は諦めたように舌打ちしする。

 俺は自分の誠意が伝わったのだと確信し、ほっと胸を撫で下ろした。

 ああ、よかった。

 これでクソは流れない。

 大爆発もナシだ。

 生きて家族とまた会えるんだ……。

 安堵と共に、俺は感謝する。

 この場にいる全員に。


 ん、全員?

 そうだ、まだひとり残っていた気がする……。


 嫌な感じがした俺は、素早くトイレ内に視線を巡らせた。

 ほどなくその相手は見つかる。

 大男はトイレの入り口近くに立っていた。

 手に何かを持っている。

 あれはスマートフォン……か?


 それを認識した次の瞬間、予感は悪夢のような現実となった。



「……はい、そうです! 三丁目の!! 急いで来てください! お願いします!」


 静まり返ったトイレに響く救難要請ヘルプミー

 それがこの戦いをより過酷で、苦しいものへと変えていく――

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