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 すべての始まりは一枚の張り紙だった。


 小さな公園の寂れた公衆トイレ。

 ひとつしかない個室の内壁に、そのA4サイズほどの紙は張られていた。

 今思えば迂闊だったといわざるを得ない。

 すべてが遅すぎた。

 ズボンを下ろし、便器に屈むより前、ドアを閉めたその時点で気付くべきだったのだ。


 その張り紙にはおそろしく達筆な字でこう書かれていた。



「水を流せば、便器が大爆発します」




 *




 俺は必死に考えた。

 この状況をどう捉えたらいいのだろうか、と。

 そもそもとして、これは本当の話なのか。

 ただの悪質な嫌がらせではないのか。

 いや、普通に考えたなら悪戯以外にないだろう。

 仮にこんな寂れたトイレに爆弾をしかけたとして、いったい誰にどんなメリットがあるというのか。


 しかし、おそろしく達筆な字で書かれたその文句は、俺にそんな思考の逃げ道を与えてくれなかった。

 字にはその人の人柄が現れるという。

 これほどまでに達筆な筆使いの人物が、こんなちゃちな悪戯をするとはどうしても思えないのだ。

 俺の額を冷たい雫が流れ落ちた。


 本音を言えば、今すぐにでもズボンを上げてトイレから逃げ出したいほどである。

 だがそれはあまりにも危険な賭けだった。

 理由はいくつかある。


 まずひとつ。

 それは俺以外の者による爆発の可能性だ。


 このトイレは寂れた場所にありながらも利用者が多いことで有名だった。

 別にハッテン場になっているとかそういうわけではない。

 単に近くにトイレがないからだ。

 今日で言うと、俺の後には五人の男の姿があった。


 ひとりはいかにも荒々しそうなガテン系の男。

 次に散歩途中だと思われる、腰の曲がったご老人。

 その後ろに、ダークグレーのスーツに身を包んだ、ビジネスマン風の優男。

 そして携帯ゲーム機とにらめっこしていた、まだ中学生くらいの中世的な美少年。  

 最後に、警備員の格好をした、身の丈2メートルはありそうな大男。


 俺らのあとに控えるこれらの男が、張り紙の警告を無視し、水を流す可能性がまったくないと果たして言い切れるだろうか。

 仮に今トイレから出て、全速力で逃げたとしよう。

 次のガテン系の男が用を終えるまで、果たしてどれほどの猶予があるのか分からない。

 何しろ「大爆発」である。

 ただの爆発ではないのだ。

 これが本当なら、仕掛けられている爆薬の量はかなりのものだと予想できる。

 たかだか数十秒の間に、どこまでかも分からない安全圏まで待避することは、非常に困難に思われた。



 そして次の問題。

 それは何を隠そう、俺自身の体の限界だ。

 こうやって思考を巡らせている間も、臀部の方はさっきからずっと溜めに溜めた鬱憤を勢いよく解き放とうとむずむずしている。

 そう、まさにこれこそが迂闊だったと感じた理由に他ならない。

 いったん排便モードに入った腸と肛門括約筋は、その本懐を果たそうと今も躍起になっているのである。

 このままここを出たとして、近隣の別のトイレに駆け込むほどの我慢が今の俺にできるだろうか。

 答えはノーだ。


 まとまらない思考。

 下せない決断。

 時だけが無慈悲に過ぎ去っていく。

 さらに間の悪いことに、外にいる男たちの我慢も限界に近づいてきているのだろう。

 刺すような苛立ちが、足踏みや舌打ちを伴ってドアの向こう側から届いてきていた。

 残された時間はそう長くないようだった。


 俺はほとんど無意識に、ポケットからスマートフォンを取り出していた。

 ディスプレイをじっと見つめる。

 楽しそうに笑いながら並んで手を振る、愛すべき家族がそこにいた。

 そう、これは確か今年のゴールデンウィークに、妻の友人に会うため訪れた金沢で撮影したもの。

 その時の記憶が鮮明に蘇る。


 美味しそうに団子を頬ぼる身重の妻。

 楽しそうに庭園を駆け回る幼い息子。

 希望に溢れた夫婦の会話。

 妻から感じた命の胎動。

 その記憶が、俺にある決意を促した。


 やはりこのふたりを、いや、もう少しで三人になるか。

 ともかく、このかけがえのない家族を置いてひとり死ぬなど、俺には到底できはしない。

 必ず生きて、あの暖かい家に帰ってやる。

 生きて、新しい命を迎えてやる。


 だが、守るべきは命だけではない。

 命惜しさに尊厳パンツを汚したクソ野郎になってやるつもりも、これっぽっちもなかった。

 今の時代は世知辛い。

 クソ野郎の家族だと知られたら、みながどれ程辛い思いをするかも分かっている。


 そんなこと、許せるものか。


 俺は覚悟を決めた。

 逃げる覚悟ではない。

 この現実と戦う覚悟だ。

 やってやる。

 大きく深呼吸し、俺は便座から腰を離した。

 そして可能な限り慎重にズボンを上げる。

 極力腹部に与える振動を抑えるためだ。

 それからベルトのバックルを手早く止め、ケツをキュッと引き締めた。

 心残り……というより腸に残るものは多分にあったが、俺の覚悟と誠意を示すには仕方がない。


 退室する前に、俺は張り紙を勢いよく壁から剥がした。

 そしてドアノブを握り、力の限りに引っ張る。

 その先に待つ、まさにこれから「激闘」を控えた男たちへと。

 俺は胸を張り、顎を引いて、ただ真っ直ぐに向き合った。


 爆発するのは便器か、それともケツか。

 そんな選択を、俺は全力で否定する。

 生命と尊厳をかけた戦いが、今ここに幕を開けた。

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