きらい、きらい、だいきらい
本命チョコをあげたい相手なんていないし、義理チョコをあげるような男友達もいない。むしろどっちかっていうと、男子はちょっと苦手な方。
だけどそんな私でも、バレンタインがやって来るのを、随分前から楽しみに待っていた。
だってただでさえ、バレンタインには特別な空気があって、直接真ん中に飛び込まなくっても、ちょんと指で触れるだけで、楽しくなってしまうもの。
いつもより落ち着かない様子の男子たちはなんだか面白くて笑えちゃうし、何組の誰それさんが何なに君に本命チョコを渡したらしいなんて噂を聞くと、全く関係ないのにどきどきして気になってしまう。
昼休み、クラスの中心グループの女子たちが配ったブラウニーケーキは私にも回ってきて、ありがとうってお礼と一緒に持ってきてたチョコのお菓子、市販のやつだけど、みんなで食べてって渡したらすごく喜んでくれた。普段はそんなに話す方じゃないしたぶんお互いあんまり合わないなって思ってるはずなのに、一気に距離が縮まったような気がして簡単に舞い上がって、嬉しくなっちゃう。合わないだろうなとは思ってるけど、けっして嫌いではなくて、たぶん本心では憧れてる女の子たちと、お菓子を挟んで親しげに話せる機会なんてあんまりないから、それだけでも私のバレンタインは素敵な日って言える。
だけど最大のお楽しみは、そこじゃなくて放課後にある。朝からずっと待ち焦がれていた私のバレンタインの本番は、授業が終わったあとに始まりを告げる、予定だ。
(うわ、ちょっと遅くなっちゃった…… 急がなくっちゃ!)
運悪く日直だったせいで、日誌を職員室に届けた分、時間をロスしてしまった。急いで教室に戻って、荷物を纏めて机の横に吊るしていた大きめの紙袋を手にして、にんまりと笑う。中には、コンビニとスーパーで買いあさった、チョコ味のお菓子各種がぎっしりと詰まっている。いつもより多めに教室に残っていた男子たちから、さりげなく視線を向けられた気がしたけど、知らんぷりで席を立って教室を出た。
だってこれは、男の子にあげる分じゃない。今から私の所属する書道部と、美術部の子たちと合同で開催する、お菓子パーティーで食べてしまう分なのだ。
普段はうるさい顧問の先生も、今日は特別に大目に見てくれるみたいで、きゃっきゃと計画を練る私たちを咎めるどころか、コーヒーを差し入れる代わりに自分も参加するって張り切ってた。書道部も美術部も女子部員しかいない上に、顧問の先生二人とも女の人だから、絶対に楽しくなるに決まってる。女子会だ女子会だ、と浮かれつつ、話したいことをあれこれと思い浮かべながら、小走りで廊下を急ごうとした。
「宍倉」
の、だけれど。
教室を出て少しもしないうちに、前方に現れた誰かに名前を呼ばれて、反射的に足を止める。
「いいもん持ってんじゃん」
そして声の主を確認した私は、げ、と思わず胸の中で呟いてしまった。
なぜなら呼び止めたのは、クラスメイトの笹岡で、私が男子への苦手意識を持つようになった原因その人でもあったから。
クラスの中心的存在の笹岡は、しょっちゅう下品な事を言っては男子を煽ってけらけらと笑ってるようなやつで、元々あんまりが関わりたくないタイプだけど、決定的に苦手だと思ったのは、同じ班になった時のこと。
給食の時間、班ごとに机を合わせて一緒に食べるのがうちの学校の習慣なんだけど、ちょうど私の真ん前に陣取った笹岡は、私が牛乳を飲んでいる時を狙って下ネタを口にして、思わず反応して咳き込めば鬼の首をとったかのように得意げに、エロいエロいとはやし立てる。反応しなければ反応するまでしつこくやらしいことばっか言ってくるし、どちらにしろいつだって最後には、クラス中の注目が私たちの班に集まってしまうのが、嫌で嫌でたまらなかった。同じ班の他の男子は止めるどころか一緒になって悪ノリしてくるし、女子は怒ってくれたけど、怒れば怒るほど笹岡たちは楽しそうにするから、埒があかなかった。
そうして私は笹岡の事が、追従してにやにやと笑う男子すべてが、すっかり苦手になってしまった。
それでもやらしいことばっか言うくせに笹岡は、勉強も運動もできるしいつだってムードメーカーとしてクラスの真ん中に君臨してるから、笹岡のことを好きな女の子は結構いるみたいで、今日だって噂で笹岡が本命チョコをもらってたって話を何回か聞いた。私としては、なんでこんな男がモテるのかさっぱり理解できない。
「誰にやんの?」
「……部活のみんなで食べるの」
「うっわ、さみしいやつらー。つーか、それ、全部食ったら太るぞ」
意地悪く笑う笹岡の口から飛び出た言葉にむっとして、やっぱり苦手だと改めて思った私は、すっと笹岡の横を通り抜けて部室へと向かおうとした。だって付き合ってたってまた腹の立つことしか言われないのは分かってる。相手にするだけ時間の無駄だと、言い返したい気持ちを押さえつけて、笹岡の存在を頭から追い出して楽しいお菓子パーティーの事だけ考えようとした。
なのに。
笹岡の隣を通り過ぎようとした瞬間、胸ポケットにからすっと何かを抜き取られる。咄嗟のことですぐに反応できなかった私は、笹岡の右手にそれが渡ってからようやく、何が取られたのか気づいてさっと青ざめた。
「相変わらず趣味悪いなーお前」
「シュウくん!」
笹岡に取られてしまったのは、私の大好きなアイドルグループstar☆lightのメンバー、シュウくんのサイン入り写真。雑誌の懸賞で当たったそれは私の宝物で、いつも胸ポケットに入れて持ち歩き、暇さえあれば眺めてるやつだ。
男子は苦手だけど、シュウくんは別。シュウくんはクラスの男子みたいに下品なことなんて言わないし、いつもきらきらしててカッコイイ、私の王子様。
その王子様が取られてしまったとなれば、無視するなんて出来るはずもなく、私は取り返そうと必死で笹岡の右手に跳びついた。
「返して! かーえーしーてー!」
「あーあ、腹減ったなー」
ぴょんぴょん跳んで、高く掲げられた悪魔の右手に囚われたシュウくんを救出しようと試みたけれど、当然うまくはいかない。悔しいけれど笹岡はクラスでも背が高い方で、逆に私は小さい方から二番目。手を伸ばしても笹岡の頭のてっぺんに、ぎりぎり届くかどうか。だけどシュウくんを取り戻したい一心で、必死に手を伸ばして飛び跳ねる。
ムカつくことに、にやにや笑う笹岡は、私の手が届きそうな場所にわざとシュウくんをちらつかせてみせ、えいっと飛びついた瞬間にひょいと私じゃ絶対に届かない場所まで手を上げてしまう。何度も何度も跳んで、ようやくこの方法じゃ絶対にシュウくんを取り戻せないと理解した私は、しぶしぶ引き下がり、紙袋の中から適当に掴んだお菓子の袋をひとつ、無言で笹岡につきつける。それでもシュウくんは返ってこないままだったから、やけっぱちでもうひとつ追加してやればようやく、満足そうな笑みと共に笹岡の手が下ろされこちらに差し出された。急いでシュウくんを取り返してきゅっと胸に押し付けて、再び取られてなるものかと、ぎいっと憎たらしい男の顔を睨みつける。
「サンキュ」
なのに笹岡は悪びれるどころか、すごく嬉しそうに笑ってたから、一瞬、どきりとしてしまう。
いつもみたいな意地の悪い何が企んでそうな笑顔じゃなくって、喜色満面って言葉がぴったりくるような、満面の笑顔。
もしかして、私からチョコのお菓子を貰ったのが、そんなに嬉しかったのかも、なあんて。ちょっぴり勘違いしそうになるくらいの、いい笑顔。
まあそんな勘違いは、一瞬で消えてしまったけど。
二つ渡したお菓子のうち、ちっちゃいチョコがいっぱい詰まった方をズボンのポケットにねじ込んだ笹岡は、もう一つの、チョコ味のスナック菓子を高々と掲げて、ついさっき私が出てきたばかりの教室に駆け込むと、大声で叫んだ。
「食料ゲットしたぞー!」
「うおーささやんさすがー!」
「チョコじゃん! やべえどしたんこれ」
「俺にもくれ! 腹減ったー!」
食料。
聞こえてきたその言葉と続いた野太い歓声に、どきりと跳ねた心臓が、瞬く間に冷えきった。
(むかつく、むかつくむかつくっ!)
じわじわと湧いてきた不快感にぎゅっと唇を噛み締め、たとえ一瞬でも、おかしな勘違いをしそうになった自分を恥じる。
あんなに嬉しそうに笑ったのは単純に、腹を満たすものが手に入ったから喜んだだけで、別に誰にもらおうが関係なかったのだ。少し考えれば分かったはずなのに、まさかあんな事を思っちゃうなんて。自意識過剰な思い違いが悔しくて、紛らわしい反応をした笹岡に腹が立って、どうしてだか、少し、泣きそうになってしまった。
(私にはシュウくんがいるもん)
取り返した写真の中では、大好きな王子様が優しく笑いかけてくれている。
そうだ、私にはシュウくんがいる。あんな、デリカシーのない笹岡と違って、優しくてかっこよくて完璧な王子様が。
まじまじとシュウくんの写真を眺めて、少しだけ慰められた私は、よし、と頭を振って走り出す。
あんなやつのことなんて、考えてたって仕方ない。今から女子会で、お菓子を食べてみんなで楽しく盛り上がるのだ。シュウくんの話をして、笹岡の悪口を言って、慰めてもらおう。話のネタにして、綺麗さっぱり忘れちゃおう。
まだむかつきは残っていたけれど、走った先に待っている楽しいことに意識を向ければ、自然と、気持ちが浮上していく気がした。
そうして、散々食べて飲んで笑って、笹岡の非道を愚痴ってすっきりして、そんな事件があった事すら忘れた、バレンタインのひと月後、ホワイトデー。
今度は部活のみんなで手作りのお菓子を持ち寄って、また女子会をしようと約束をしてて、もちろん顧問の先生の了承は取り付け済み。
バレンタインよりは落ち着いているけれど、少しだけそわそわした空気は、ひと月ぶり。本命を渡したらしい女の子たちのその後の噂を聞いてそれなりにホワイトデーを満喫しつつ、特に何かある訳でもなく、迎えた放課後。
今度は日直でもなかったから、帰りの会が終わってすぐ、荷物を纏めて教室を飛び出す。
まだまだ教室には人がいっぱい残ってて、教室を出たのはかなり早い方だと思ってたけど。
(げっ)
廊下のすぐ先、私よりももっと早く教室を出たらしい笹岡が待ち構えてる姿を見つけて、反射的に胸ポケットを抑えた。
引き返して遠回りして部室に行こうか迷ったけど、それはそれで逃げてるみたいで悔しいから、小走りで一気に駆け抜けようとした、ら。
「おい」
「わっ、なにっ?!」
きっちり胸ポケットは死守してたから、シュウくんを取られずに済んだ。だけど腕を掴まれてしまったら、嫌でも止まるしかない。
がしりと掴まれた腕は少し痛くて、私より随分と大きな手がちょっと怖くって、だけど怖がってる事を悟られたくなくって。
ぎりりと笹岡を睨みつけて、手作りのお菓子の入った袋を後ろに隠す。
今日は絶対に、何も渡してなるものか、と気合をいれて、離して、と掴まれた手を振り払った。
思い切り勢いをつけて手を振ったら、意外にもあっさりと笹岡の手は離れたから、勢い余って少しバランスを崩し、前につんのめりそうになる。それを笹岡に助けられ支えられてしまったから、半ば八つ当たりではあるけれど、むかむかと腹が立ってしまう。
「なに?」
悔し紛れに吐き出した声は、自分でも驚くほど冷たかった。私が誰かにそんな声をかけられたら、ひゅんと心臓が縮んで、話を続ける気もなくなるくらい。
なのに笹岡は大して気にした風もなく、ズボンのポケットに手を突っ込んだから、思わずぎくりと身構えてしまった。
きっと何が、嫌なものが出てくるんだ。蛇のおもちゃとか、やらしい雑誌の切り抜きとか。笹岡はよく、そういうことをして女子をからかうようなやつだから。
そう決めつけてさっさと逃げ出そうと足に力を入れた時。
「やる」
「……へ?」
ぽん、と。
取り出した何かを、私の手に無理やり捩じ込むと、何事もなかったようにさっさと私の横を通り過ぎてゆく、笹岡。
思わず受け取ってしまったそれを、恐る恐る確認すればそこにあったのは、嫌がらせのおもちゃでも、やらしい雑誌の切り抜きでもなく。
二個入りの、マカロン。コンビニで、売ってるやつ。
(なに、これ)
慌てて振り向いて、笹岡に聞こうと思ったけれど、既にその背中は廊下にはなく、教室の中からいつも通りの大きな、友達とふざけている声が聞こえてくるだけ。
追いかけていって、確かめる事なんて、出来なかった。
だって。
(まさか、そんな訳、ないよね)
ちょうどひと月前の、バレンタインの女子会で。話題に上がった、ホワイトデーのお返しの意味。
クッキーは友達ってっことで、マシュマロは嫌い。
キャンディーは君が好きで、マカロンは、確か。
(君は特別な、人、なんて、そんなの)
本命相手には、キャンディーかマカロン。でも私たちには、当分関係ないよね、と笑った記憶が、まざまざと蘇る。
その、マカロンが、私の手に。笹岡から、私に。
ぼんやりと手の中のものを見つめているうち、笹岡と、マカロンと、女子会の話が、ようやくかちりと頭の中で結びついて。
ぼふんと頬が、赤くなるのを自覚した。
(ないないないない! 違うもん! 絶対違うもん)
もしかして、と沸いた思考を慌てて否定する。
だって笹岡は食料って言ってたし、クラスの男子みんなで食べてたし。変に勘違いしたら、絶対馬鹿にされるに決まってる。
それに私は笹岡のことなんて苦手だし、好きじゃないし、万が一、そういう意味だって、意識したりなんてしないし。私にはシュウくんがいるし。
(苦手、ううん、嫌いだもん、笹岡なんて)
きらい、きらい、と胸の中で何度も呟いて、胸の中で微笑むシュウくんの事を考えて、有り得ない勘違いを正そうとする。
けれどひと月前みたいに、すぐに気持ちを切り替える事が、できなくて。あろうことか、シュウくんの笑顔に、ひと月前のあの、笹岡の嬉しそうな笑顔が重なって。慌てて首を振ったけれど、なかなか笹岡の笑顔が消えてはくれなくって。
どくりどくりと心の奥に根付いた熱は、いつまでもいつまでも、冷めてはくれない。
後日、クラスの男子に聞いてみたら、バレンタインの日に笹岡がみんなに振舞ったお菓子は、チョコ味のスナック菓子、一種類だけ。ポケットにねじ込んだ、小さなチョコの詰め合わせの行方は、誰も知らなかった。
(まさか、そんなこと、ある訳ない)
それでもまだ、違う違うと心の中で否定はしているけれど。
以前より目で追ってしまう事の多くなった笹岡と、目が合うたび、どきどきして。
時間が経てばきっと落ち着くと思ってたのに、終業式が終わって、春休みを挟んで、新学期。
三年の教室の中、笹岡の姿を見つけたら、馬鹿みたいに心臓が跳ねた。
(きらい、きらい、きらい)
笹岡なんか、大っ嫌い。
いくら自分に言い聞かせたって。
勝手に速くなってしまう胸の鼓動を、止める術が、あの日から。
ずっとずっと、分からないまま。