第08話 小さな奇跡の日々
夏の陽が高く昇り、王宮の池には淡紅色の睡蓮が凛と咲き誇っていた。
ニナ・レイザルトは籠を抱え、軽やかに石畳を進む。侍女服に身を包んだ姿はすっかり板につき、淡い笑みを浮かべながらすれ違う侍女たちに頭を下げる。
「贅沢な部屋を与えられてるらしいわ」
「血筋はよくても、もとは平民の娘よ」
「王女殿下のお気に入り」
かつては侍女の間で陰口の絶えなかった彼女に向けられる視線は、早春から盛夏にかけて少しずつ変わっていた。
冷ややかな囁きは影を潜め、今は「おはようございます、ニナ様」と小さな笑顔さえ交じる。
その笑顔に、かつて抱えていた刺さるような孤独や不安は、ふっと溶けて消えていく。
にこやかに応じるニナの柔らかさには、立場や身分の隔てを越えて人を惹きつける、不思議な力があった。
ユリアの部屋に入れば、窓辺の光を受けた淡い金の髪がきらめき、少女は振り返って瞳を輝かせる。
「ニナ、今日はどんなことをするの?」
「まずは歴史のおさらいです。でも退屈にならないように、劇仕立てにしてみましょうか」
「楽しそう!」
無邪気な笑い声が部屋いっぱいに弾み、二人のやりとりは、もはや自然な日常の一部となっていた。
⸻
午後の光が広い図書館のステンドグラスを透かし、床に模様を描く。
分厚い本を前にしたユリアは、薄紫の瞳をきらきらと輝かせていた。
ユリアは背の高い書架の間を楽しそうに歩き、腕いっぱいに本を抱えていた。
「ねえ、ニナ。今日はどれから読む?」
「魔法書も良いですが……少し疲れたときは物語も楽しいですよ」
ニナは彼女の手から一冊を取り、机の上にそっと置いた。
しばらくは二人並んで本を読み進めていたが、やがてユリアがふと顔を上げた。
「……どうして、ニナはそんなに勉強するの?」
ふいに洩れた問いには、子どものような好奇心と、どこか切実さが帯びていた。
ニナは一瞬だけ迷った。だが、隠すことなく、穏やかに微笑んで言葉を紡ぐ。
「……私には、魔力はありません。特別な力もありません。でも、本や学びは、世界の見え方を変えてくれるんです。
つらい現実に向き合うときでも、学べば新しい視点が生まれ、同じ現実が少しだけ違って見える。
世界が広がれば、他の人の考えや気持ちを知ることができます。そうすれば――相手を理解できるし、自分自身のことも、少し救われる気がするんです」
その声は静かだったが、胸の奥に秘めた強さが確かに伝わってきた。
ユリアは目を瞬き、ゆっくりと頷く。
「……ニナにとって、学ぶことは――希望なんだね。すごく素敵」
その言葉に、ニナは恥ずかしそうに微笑み、本を閉じた。
ユリアの胸に、静かな温もりが広がる。
「……だから私は、ニナと一緒にいると安心するのね」
小さな声で呟き、彼女は本を抱きしめるように胸に寄せた。
実際、王宮の学び舎では、ニナが来てからのユリアの天才的な才能の開花と急成長が評判となっていた。
魔力の高さと学びの速さは師をも凌ぎ、法律、歴史、数学――あらゆる知識を論理的に吸収していく。
初めはニナが教える立場だったはずが、あっという間に追い抜かれてしまうほどだった。
「王女殿下はまるで別人のようだ」と教師たちは驚き、ついにはレオニス王までも「頼もしい」と洩らしたほどだった。
だがユリアは、いつも小さく首を振り、隣のニナを見つめることを忘れなかった。
「私が頑張れるのは……ニナがいてくれるから」
その言葉に、ニナの胸はじんわりと温かさに満たされた。
自分なんか……と肩をすくめたくなる思いと、そんな自分まで必要だと言われた喜びが、胸の奥深くで静かに揺れ広がる。
「ありがとうございます……私こそです……」
⸻
図書室の回廊の影に、もう一人の瞳が潜んでいた。
ルイス・アヴェルシア――第二王子。
偶然耳にした二人の会話に、胸が知らぬうちに揺さぶられる。
彼はニナの素性を調べさせていた。
幼少の頃は貴族からも平民からも疎まれ、両親の不和と没落、離婚を経て、困窮した家族。
やがて母と兄は伯父カイロス侯爵に庇護され、ニナだけが養女として迎え入れられた――重い過去を背負うはずの娘。
だが目の前の女性には影がない。
彼女を知る者は口を揃えて「公平で優しく、穏やかだ」と語る。
(……なぜ、あの娘はあんなにも澄んでいる?)
冷ややかなはずの胸に、言葉にならぬ温かさが芽吹いていた。
ルイスはそっと回廊を離れ、遠くから二人の後ろ姿を見守る。
やがてユリアとニナは図書室を後にする。外は真っ白な百合が幾重にも花をひらき、風にそよいで微かな香りを漂わせている。
噴水の水飛沫が光を受けて虹を描き、夏の暑さをひととき忘れさせるように涼やかで清らかな空気が広がる。
その小道を、二つの影は並んで歩いた。
ユリアは楽しげに語り、ニナは時折うなずきながら柔らかな笑みを浮かべる。
その姿は王女と侍女というより、姉妹か或いは恋人のように親しげであった。
小鳥のさえずりと噴水の音にまじって、少女たちの笑い声が明るく弾んでいた。
――こうして、二人の世界は、まだ誰にも侵されぬ、穏やかで温かなひとときとして続いていった。
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