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第67話 暁、継がれた光

朝露が、石畳を淡く濡らしていた。

ルイスは、久方ぶりに月の離れを訪れた。


そこはかつて母が過ごした館であり、そして――初めて本気で愛した女性、ニナと記憶を重ねた場所でもあった。


窓辺の棚に、小さな鉢植えが残されている。

夏の気配が満ちる夜明け前の淡い光の中で、水色の花弁が、季節外れにただ一輪だけ、静かに咲いていた。


〈蒼光草〉――かつて自らが贈った花。

遠い北の地で見つけ、「春を呼ぶ花」として彼女に手渡した。

ニナはその小さな花を、まるで命を育てるように、大切に守り続けていた。


戦の後、王太子妃の座を辞して王宮を去る際、ニナはこの花の世話を管理人に託したという。

“大切な花だから、どうか枯らさないで”――そう言って、微笑んだと聞く。


ルイスは膝を折り、そっと指先で花弁をなぞった。

露が光り、まるで涙のようにきらめく。


「……置いていったのではなく、残してくれたのか。」


静かに呟くと、かすかな香りが風に乗り、部屋を満たした。

それは、かつてこの離れを包んでいた彼女の気配のように、ほのかに漂う。


ルイスはまぶたを閉じる。

もう二度と交わらぬとしても――

胸の奥に新しい光がともった。


(ありがとう、ニナ。……君が守った春を、私も守ろう。)


静けさの中で、彼はすでに次の王位を託される覚悟を固めていた。


やがて離れを出た彼の耳に、遠くから剣戟の音と掛け声が届く。

王国騎士団の早朝訓練――先の戦で己の無力を知った者たちが、再び剣を握り直すための朝稽古だった。


思わず足を向けると、その輪の中に、ひときわ凛と立つ影があった。


「……アレクシア。」


視線が合い、彼女は東の空から差しはじめた淡い曙光を背に受けてゆっくりと振り向いた。

長く誇らしい髪を断ち切り、首筋を見せる短髪で、戦士としての覚悟をその身に刻んでいた。

ルイスは、初めて彼女を――真に美しいと思った。


アレクシアは膝をつき、静かに頭を垂れる。


「ルイス殿下。……王となられること、心よりお祝い申し上げます。」


その声音には、過去を振り返る響きは一片もなく、ただ未来を見据える硬質な強さがあった。


ルイスは小さく息を吐く。

「……礼を言う。お前がいてくれるのは、何より心強い。」


アレクシアは真っ直ぐに彼を見上げ、凛と告げた。

「私は不要なものはすべて捨て、前だけを見ております。

ただひとつ、昔から変わらぬものがあります。――私は殿下から離れません。どんな時も、殿下のそばでお支えいたします。」


その言葉に、ルイスの胸の奥がふと揺さぶられた。

彼女の瞳の中に、共に戦った日々の炎と、これから共に歩む希望の光が宿っていた。


「ヒューッ!」


「さすがアレクシア殿!」


訓練場の仲間たちが声を上げた。

笑いが広がる。

その中には、包帯を巻いた腕で剣を握る者も、まだ息の整わぬまま立つ者もいる。


「殿下をお守りするのは我らの務め!」


一人、また一人が剣を胸に当て、無言で一礼した。傷だらけの拳を掲げる騎士も数多くいた。


ルイスはわずかに目を瞬かせ、そして小さく笑みを洩らす。

張り詰めていた胸の奥が、ふっと温かくほぐれていく。


剣戟の音と仲間の声に包まれながら、彼は静かに息を吸い込んだ。


「……感謝する、アレクシア。」


短い言葉だったが、その声には確かな温もりと、王としての決意が滲んでいた。



そのとき、地平の縁がかすかに輝き、ついに朝日が姿を現した。

刃に宿った露がいっせいに光を弾き、訓練場に無数の小さな朝が生まれる。


アレクシアが立つ。

ルイスが並ぶ。

騎士たちが剣を握る。


誰も言葉を発さない。

ただ、次の時代を支える者たちの呼吸だけが、静かに揃っていた。


朝の光の中、若き王とその剣が、同じ方向を向いている。

光は彼らの背を押し、

進む先だけを照らしていた。



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