第66話 静かなる継承と、密かなる想い
戦が終わり数ヶ月――。
王都の空は高く澄み、白い雲がゆるやかに流れていた。
重症のレオニス王は容態が戻らず、王位を翌春、王太子である第二王子ルイスに譲ることを決意した。
王都では、人々がまだ見ぬ若き王の時代を語り合っていた。
英雄の即位に、希望を口にする声があちこちで溢れていた。
その即位は、王室に緊張を残しつつも、長い冬を越えた国に差し込む新たな光となろうとしていた。
街路では子どもたちの笑い声が弾み、遠くの市場からは果実を売る声が届く。
国は確かに、前を向いて生き始めていた。
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病床に伏す王は、静かに王妃の手を取る。
開け放たれた窓から、夏の風が白い帳を揺らし、遠くで蝉の声がかすかに混じっていた。
「……王妃。お前は王妃として素晴らしかった。お前が妻で、わしは幸運であった」
「陛下……」
王は微笑み、続ける。
「テオドリクも良い青年に育った。ルイスも……義母としてよく導いてくれた。感謝している」
「……」
「……わしが逝ったら、お前は好きに生きろ。もう義務に縛られる必要はない」
驚くヴァレリアに、王は一度、静かに息を整えた。
「……カイロスにも頼まんとな」
「……陛下……!」
「わしが気づかなかったと思うか。結婚前――お前とカイロスは、深く惹かれ合っていたな」
ヴァレリアは息を呑む。だが王は穏やかに首を振った。
「良いのだ。私はお前を何度も悲しませた。……だが、お前は王妃として義務を果たし、最後まで寄り添ってくれた。……感謝している」
「……わたくしは……」
「過ちも、悔いもあった。だが最後は――お前に看取られたい」
王の手が、涙に濡れるヴァレリアの頬をそっと撫でる。
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数日後――。
竜を祀る教会の鐘が、遠くでひとつ鳴った。
かつては銀竜を建国の祖と称え、真の歴史を覆い隠してきたその教会も、
いまは過ちを認め、黒竜の名を再び掲げている。
白い石壁には修復の跡が残り、午後の光がステンドグラスを透かして、
淡い色の影を床に落としていた。
外では強い陽射しが石段を白く照らし、教会の庭では背の高い夏草が風に波打っている。
カイロス・レイザルトはその光の中に立ち、静かに祈っていた。
祈りなど、長く忘れていた。だが今はただ――
アヴェルシア王国の安寧と、ニナとシオン、そして人々の未来のために。
若き日に守れなかった願いを、せめてこの国では誰にも失わせぬようにと、彼は歩き続けてきた。
遠く、城の方角から祝福の鐘が重なり、夏空へ溶けていく。
背後から、衣擦れの音がそっと響く。
振り向くと、ヴァレリアがいた。光を背にして立つその姿は、
かつてと変わらぬ気高さを宿している。
その輪郭が、遠い夏の日、ひまわりの咲く野に立っていた少女の面影と静かに重なった。
あの日、身分も義務も忘れ、自由に笑っていた彼女に、彼は心を奪われていたのだった。
「……あなたがここにいるなんて、珍しいわね」
ヴァレリアは静かに微笑んだ。
カイロスは穏やかに頷く。
一瞬だけ言葉を選ぶように黙り、やがて昔の呼び方のまま口を開いた。
「昔のことを思い出していたのだ。ニナとシオンが互いに学び合う姿を見て――若き日の我らを。」
窓の外で、風に擦れた木々の葉がさらりと鳴った。
ヴァレリアはわずかに目を伏せた。
「本を読み合ったこと、学びを語り合ったこと……馬を駆けて、大地を自由に走った日々を」
その声音には、戻れぬ年月の温度が滲んでいた。
ヴァレリアのオーロラ色の瞳に、遠い日の自分を静かに笑うような光が揺れた。
「若かったわね。……すべて遠い過去」
教会の鐘が、ゆるやかに二度、鳴る。
その音が、二人の間に静かな沈黙を落とした。
「政治のために、私はあなたを敵とした。けれど……あなたを尊敬していたわ」
「ヴァレリア。……私もだ。君は己の信念を貫いた。それを誇りに思っている」
ヴァレリアの目がわずかに潤む。
それでも気丈に笑みを作り、問いかけた。
「……あなたは結局、伴侶を迎えなかったのね」
カイロスは小さく息をつき、光の差す方へと視線を向けた。
ブロンズの髪と瞳が、午後の陽にやわらかく光る。
「そうだな。妻を持たなかった。
だが――領地と民があり、王の友であり続け……
そして遠くから、お前を見守ることができた。
それで十分だった。」
ステンドグラスの光が、二人の影をひとつに重ねる。
ヴァレリアの目に、涙がにじむ。
カイロスは穏やかに微笑み、静かに告げる。
「お前のことだ、最後まで王に寄り添うのだろう。だが――もしも落ち着いたら、気が向いたらでいい。いつでも領地で待っている。」
その言葉は、静かな夏の光の中に溶けていった。
その時だった。
光の中で、彼女の胸の奥に、かつての彼の、
あの静かで真摯な眼差しがよみがえった。
ー君をいつか、解放したいー
遠い日の声が、胸の奥に重なる。
指先が、わずかに震えた。
彼女だけが知るカイロスの温もりが、
凍っていた時を溶かすように、静かに広がっていく。
ヴァレリアは嗚咽をこらえ、涙を抱いたまま、ただ深く頷いた。
――やがてカイロスの姿が去り、教会には祈りの灯と、彼の残した温もりだけが残る。
ヴァレリアは背筋を正したまま立ち尽くし、袖でそっと頬を拭った。
「……本当に、不器用な人……」
小さく笑みを浮かべながらも、頬を伝う雫は止められない。
蝋燭の炎が、彼女の瞳にきらめきを映す。
その光は、沈みゆく陽の代わりに、まだ見ぬ明日を照らしていた。




