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第65話 黄昏に結ばれた手

王都への凱旋から十日あまり。

長く居座っていた冬の名残の中にも、春の気配が確かに芽吹いていた。


黒竜のもたらした慈雨が雪を溶かし、大地はようやく息を吹き返した。

王都には、黒竜を守護者と称える声と、ニナを聖女と呼ぶ歌が絶えず響きわたり、人々は再び希望を取り戻そうとしている。


だが当のニナは、その呼び名を聞くたび、どこか困ったように微笑むのだった。


「……聖女なんて、やめてください」


やわらかな声だった。


「私は強くありません。特別な力もありません。

あの時も、ただ……見ていられなかっただけなんです」


視線を落とし、小さく息を吐く。


「誰かを高いところに置く呼び方は、少し苦手で……

私は、みんなと同じ場所に立っていたい」


そう言って、彼女は膝をつき、傷ついた人の手を取っていた。

奇跡を起こした存在としてではなく、ただ隣にいる一人として。


教会はまた、歴史の過ちを認め、建て直しに取り組む姿勢を示した。


王太子妃の座を辞退したニナは、王宮を去り、養父カイロスとともに改革を支えることを選んだ。


そしてユリア――黒竜の子として生まれたシオンは、人々から王へ、王子として迎えられる声もあった。

だがシオンは、そのすべてを固辞した。


「自分は、誰かの上に立つ器ではない。ただ、一人の人間として、この国を守りたい」


 王はその意思を尊重し、正式な継承権を伴わぬ形で、彼を王家の庇護下に置いた。

 これからは剣と学問を修め、自ら選んだ道として国を守る決意を固めていた。


 戦火を越え、それぞれの道が動き出す。


 だがその前に、どうしても果たさねばならぬ別れがあった。


 ――王宮の謁見の間。


 ニナとシオンは病に伏すレオニス王を見舞い、静かに礼を尽くした。

 戦場で受けた傷が癒えぬまま熱を引き起こし、王の体力は著しく衰えていた。


 その後、扉の向こうにテオドリクが立っていた。


「ニナ嬢、シオンと共にこの国を救い、民を守ってくれた。その勇気と働きに、心から感謝する」


 柔らかな声音に、威厳と誠実さが宿る。


 ニナは深く頭を垂れた。


「もったいないお言葉です」


 テオドリクはふと目を細め、声を和らげた。


「新しい教育機関の構想の会議も、私も参加させてね。……それに」


 唇に微かな笑みを浮かべ、軽やかに続ける。


「さっき、西のバルコニーにルイスがいたんだ」


 片目を閉じてウィンクしたその仕草に、『行ってやってくれ』という兄の想いが込められていた。

 軽やかな声に、ニナの胸の奥が小さく震える。


「……お願い。少しだけ、話したくて、行かせてほしいの」


 シオンは、眉をひそめたが、彼女の願いを受け止め、何も言わずに見送った。



 ニナは駆ける。

 廊下を抜け、石造りの螺旋階段を上り詰め――息が途切れた――辿り着いたのは、王宮西翼のバルコニーだった。


 そこには、夕陽を浴びて立つルイスの姿があった。


 銀の髪が赤金の光をまとい、静かに鋭くも輝いている。


 ニナの胸には、かつて共に過ごした日々がよみがえった。

 笑い合ったあの夏の日、舞踏会の夜、通じ合った日々――

 幸福だった記憶のすべてが、ルイスの背中と重なった。



 背後には王都の全景が広がっていた。


 塔や屋根が一斉に茜色に染まる。

石畳の隙間には若草が芽吹き、街路には人々の往来と笑い声が聞こえてくる。

 平和の息吹が、戦の痛みを胸に抱えた街にも、満ちていた。



「……ル、殿下」


 息を整え呼びかける声は、小さく震えていた。


 ルイスが振り返る。

 銀の髪が風に流れ、青の瞳が夕陽を映して揺らめく。

 その瞳には、哀しみと、それ以上に揺るがぬ決意が宿っていた。


「……君は、やはり王妃になるべき人ではない」


 静かな声だった。


「殿下……」


 ルイスはゆっくりと近づき、彼女を真っ直ぐに見つめる。


「縛られずにいてほしい。君は君らしく――誰よりも自由に、生きてくれ。それが……私の願いだ」


  ニナの視界が滲む。

  彼の姿が、揺れた。

 

 その青い眼差しの奥に潜む想いを胸に刻み込み、決して忘れないと誓った。


「……はい。別の形で、殿下を支えたいと思います」


 王になろうとするルイスを思い遣りながら、ニナは微笑んだ。


「ルイス……ありがとう……」


 そして、黒き瞳で、まっすぐ彼を見つめる。


「あなたと過ごした日々は、一生の宝物です。私の生を支える、大切な記憶です」


 声は震えていた。だが、笑っていた。


 その言葉に、ルイスの瞳も揺らいだ。

 人前では決して涙を見せぬ彼が、夕陽に照らされ、静かに目を伏せる。


「……ニナ」


 低く掠れた声で名を呼ばれるだけで、心が震えた。


 一瞬、互いに抱きしめたい衝動が胸をよぎる。


 代わりに――堅く、確かに握手を交わす。


 指先に伝わる体温。

 それだけでいいと。

 

 青と黒の瞳が静かに重なる。


 茜空の下、二人はゆっくりと手を離した。


 ルイスの唇が、かすかに動いた。

だが声は、ついに形にならず、祈りとなった。


 王都を照らす夕陽は、やがて二人の背を押すように傾いていった。


 未来へ進むための別れを、祝福するかのように。




 ――夕陽が傾き、茜の空が紫へと溶け始めていた。


 ルイスと交わした固い握手の余韻を胸に残したまま、ニナはバルコニーを後にする。

 頬を伝った涙の跡はまだ乾かず、心臓の鼓動は落ち着かないままだった。


 重い扉を押し開け、薄暗い廊下へ踏み出す。

 そこに――彼が立っていた。


 黒髪は夕映えを受けて柔らかく光を帯び、長いまつげの影が白い頬に落ちている。

 まだ僅かに少年らしさを残すその顔立ちは、張りつめた静けさの奥に、行き場のない熱を閉じ込めていた。

押し隠された感情の代わりに、凛とした意志だけが浮き上がっている。


 シオン。

 壁に寄りかかり、黙って彼女を待っていたその姿は、夕陽の名残を背に受けて淡く輝いている。


「……見ていたの?」


 責めるでもなく、ただニナが優しく問いかけると、シオンはほんのわずかに視線を逸らした。


「……全部じゃない。ただ……君が泣いていたのは、分かった」


 その声音には、揺らぎがあった。

 まつげの影が頬に落ちたまま、視線もわずかに揺れる。握った手の甲に、うっすらと白さが滲んだ。


ニナの胸の奥で、やわらかな痛みがほどけていった。


「もう、大丈夫」


 シオンはゆっくり歩み寄り、そっとその手を取った。

 指先が触れ合った瞬間、互いの体温が沁み渡る。


「……これでいい。俺はニナを泣かせない」


 静かな声だった。

 けれど、その言葉には、一点も迷いのない覚悟が宿っていた。


 彼は迷わず、ニナの手を包み込み、そっと口付ける。


 ニナの頬は熱を帯び、微笑んだ。


「ありがとう、シオン。……あなたと共に」


夕風が頬をやわらかく撫で、どこからか運ばれてきた花の匂いをかすかに漂わせていた。


言葉を交わすより早く、二人の影は並んで長く伸び、夕映えの中へと溶けていく。


王都の空は静かに夜を迎えつつあり、茜から群青へ。

街の灯がひとつ、またひとつと灯り始めた。

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