第64話 慈雨の果てに――最期の償い
空は晴れていた。
春の兆しを宿す陽光が、雪解けの大地を照らし出している。
ニナはそっとシオンの手に自分の手を重ね、囁くように言った。
「シオン……お願い、もし出来れば、隣国にも雨を降らせられるでしょうか……あの人たちはきっと飢えている……」
紫の瞳が深く彼女を映す。
戦の猛りを鎮めた、その奥に、遥かな時を生きた存在のような静けさが宿っていた。
シオンは微笑み、ゆっくりと頷いた。
季節は暦の上では春――だが、異常な寒波と豪雪がこの年を覆っていた。
戦いの終わりを迎えても、北方の地はなお乾き、飢えに苦しんでいた。
ニナの願いは、ただひとつ。
誰もが再び立ち上がれる春を、すべての民に。
次の瞬間――
天を裂くような轟音が、雪原を震わせた。
シオンはニナの手をそっと離し、一歩、前へ踏み出す。
その足元から風が渦を巻き、白銀の雪を高く巻き上げる。
光が彼の輪郭を包み、衣はほどけるように、空へと溶けていった。
人の肌は、夜空を写したかのような漆黒の鱗へ。
光と闇が交わる中で、形は変わり――
苦痛も、悲鳴もない。
それは変貌ではなく、回帰。
次の瞬間、
天と大地の狭間に、煌めきが生まれ、
黒く輝く竜が顕現した。
広げられた翼は空を覆い、
一振りごとに、風と光を従える。
黒竜は首を低く垂れ、翼の付け根へとニナを導いた。
ニナは一歩も怯まず進み出て、
慈しみを宿したまなざしで、優しくその背へ手を置いた。
天に舞い上がった風は、陽光を包み込むように円環を描き、空を覆う雲を集めはじめた。
太陽の光は薄れ、けれどその輝きはやさしく、あたたかかった。
やがて隣国側の空にのみ雷鳴が走り、金色の雲の間から、静かな雨が降り注ぐ。
甲冑を打つ雨音が、乾いた大地に深く染み込んでいく。
黒竜の声が、空そのものを震わせる。
「この雨は、恵みではない。
生きようとする者が、自ら取り戻すものだ。
もう争いを選ばなくていい。
次に剣を取るなら――
その手で、何を失うのか思い出せ」
慈雨は隣国の荒れ果てた大地を潤し、雪解けとともに土を温める。
兵士たちは甲冑を濡らし、剣を握る手を緩め、ただ空を仰ぎ、涙を流した。
「……雨……生きられる……!」
「神が……いや、黒竜と聖女が、救ってくれた……!」
戦場の空気に、一瞬の静寂が訪れる。
希望は人々の頬を濡らし、血と憎しみを洗い流していく。
敵も味方も、恐怖ではなく安堵と感謝に満たされていた。
その光景を見下ろしながら、ニナは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
人を傷つけず、争いを終わらせる力――
雪解けと太陽の光、慈雨に導かれた大地は、希望の色を取り戻し始めていた。
それは奇跡ではなく、人が選び取った未来でもあった。
そして、黒竜はゆっくりと翼をたたみ、春の陽の中へと溶けていく。
その傍らでニナは静かに祈った。
「どうか……この世界に、もう二度と終わらない冬が訪れませんように――」
――この瞬間が、二つの国の歴史を変える。
神話に語られる「黒竜と聖女の慈雨」。
それは和解と共生の象徴として、永遠に人々の心に刻まれるのだった。
――戦場の片隅
地に伏したマグヌス公爵の鎧は、もはや血に濡れ、銀の輝きを失っていた。
彼は重い息を吐きながら、かろうじて首を上げる。
空には黒竜が舞い、柔らかな陽光が大地を包んでいた。
その背に寄り添う乙女の姿――まるで伝説が甦ったかのように、視界に揺れて映る。
「おぉ……天よ……これこそが真の伝説……」
老練の目から、熱いものが零れた。
「……これで……贖えたのか……」
苦渋と共に呟き、血で汚れた手を懐へと伸ばす。
そこには王へ宛てた最後の手紙があった。
震える指で従者に押し付ける。
「……必ず……陛下に届けよ。これは……我らの罪の……告白だ」
従者は涙を流しながら深く頷いた。
マグヌスは、遠い過去を見つめるように目を細めた。
グラシエラ家当主だけに伝わる秘密――建国の祖、黒竜を悪とし、代々偽ってきた事実。
またあの夜、己の命で王を討たせたこと――全てアヴェルシアを守るためであった。
だが、それらがどれだけの血と涙を生んだか。
悔恨は胸を裂いたが――それでも最後まで、公爵としての矜持は捨てなかった。
視界が白く霞み、陽光の中に人影が近づく。
鎧の金具がかすかに擦れる音。
重い足音が彼の傍らに止まった。
「……マグヌス。」
光の中から現れたのは――白銀の髪を風に揺らしたレオニス王だった。
「陛下……どうして……自ら……」
「義父の最期を、他人に任せるわけにはいかぬ。」
王は血に濡れたその手を取り、深く息をついた。
その手は驚くほど温かく、わずかに震えていた。
「……陛下……私は……罪を……」
レオニスは静かに首を振る。
「お前は国を裏切ったのではない。……守ろうとしたのだ。
それが誤っていたとしても、その心まで咎める者はおらぬ。」
琥珀の瞳は濁り、小さな息を吐く。
「私はすべてを知っていた。
それでも――お前を責めきれなかった。
止められなかった私も、同罪だ。」
マグヌスの目に、驚きと、僅かな安堵が宿る。
「……ならば……私は……」
レオニスはその額に手を置いた。
父が子をなだめるように、静かに。
「もう言うな。行け、マグヌス。……我が友よ」
その言葉に、マグヌスの頬をひとすじの涙が伝う。
黒竜の翼が遠くを横切り、隣国へ向かう慈雨の光が雲間に瞬いた。
「……王……レオニス……感謝する……アヴェルシアを……頼む」
微笑を残したまま、マグヌスは静かに息を引き取った。
レオニス王はその身体を抱き寄せ、しばし何も言わず空を仰いだ。
ただ陽光だけが頬を照らしていた。
「……これでようやく、我らは兄上のもとへ顔を向けられるな。」
誰にともなく呟いた声は、風に溶けていった。
黒竜の残した光の気配が空を覆う中、
ふたりの――そして、ふたつの時代の影は静かに陽光へ溶けていった。




