第63話 帰還ーー悠久の時を越えて
轟音とともに、黒竜が戦場の空を裂いた。
長き冬に閉ざされていた大地が震え、空気そのものが悲鳴を上げる。
吹き荒れていた雪は止み、雲が引き裂かれるように割れ、まばゆい光が差し込んだ。
兵も将も、剣を握ったまま動けずにいた。
それは敵か味方かを選ぶ存在ではない。
誰もが言葉を失い、ただ空を見上げていた。
――神話が、降りてきたのだ。
黒き竜の背に、ひとりの女性が立っている。
ニナ。
鱗にしがみつく指先は白く、震えている。
涙に濡れた瞳で、彼女は戦場を見下ろしていた。
そして小さく息を吸い、静かに――竜の背から地へと降り立つ。
その瞬間、冷たい風は和らぎ、降り続いていた淡い雨が大地をやさしく打った。
それは破壊の雨ではない。
あたたかく、やさしく、傷を包み込むような慈雨。
黄金色を帯びた雨が大地を潤し、踏み荒らされた雪原に、かすかな緑が息を吹き返していく。
兵士たちは、天と地がひとつになるその光景を、声を発することもできず見守るしかなかった。
光の中で、黒竜が咆哮する。
次の瞬間、その巨体がまばゆい輝きに包まれ――
「……ユリア様……!」
光の中に立っていたのは、王女ユリアだった。
だが、かつての姿とは違う。
白金だった髪は、夜のような黒へと変わり、
その瞳には、幼さの影はない。
そこにあったのは、揺るぎない気高さと、深い慈愛。
その視線が、まっすぐニナを射抜く。
そして、ほんのわずかに微笑んだ。
胸の奥が、熱を宿すように震えた。
「ユリア様……ありがとう……」
ニナは涙をこぼしながら駆け寄り、その身体をそっと抱きしめた。
それは長き彷徨の果てに、魂が帰る場所を確かめるような抱擁だった。
その時だった。
その腕の中で、再び光が満ちる。
ユリアの輪郭が、柔らかくほどけていく。
光の粒が舞い、雨と溶け合いながら、ニナの前に立っていたのは――
ひとりの青年。
漆黒の髪。
透き通るような美貌。
以前より背は高く、面差しは大人びている。
けれど、その瞳だけは変わらない。
懐かしくて、胸が締めつけられるほどの光。
武器が、ひとつ、またひとつと音を立てて落ちる。
やがてそれは連なり、戦場全体が静寂に沈んでいった。
青年は、ニナを見つめ、静かに告げる。
「愛している」
その瞬間、戦場から音が消えた。
ニナの胸に、過去の光景が走馬灯のように溢れる。
――幼い頃のユリア。成長してもずっと寄り添ってくれた、あの優しい瞳。
――シオン。明るい眼差し。死の淵で、「愛している」と囁いた夜。
それらは今、ひとつの真実へと収束していく。
ずっと、
懐かしいと思っていた。
理由もわからず、あたたかく、心の奥に在り続けた存在。
ユリアであり、シオンであり、竜。
そのすべては、最初からひとつの魂だった。
そして――
ここへ、帰ってきた。
千年の時を越えて、
その魂は、ただひとりを――
愛し続けていたのだ。
「……ユリア様……シオン……!」
光の雨が、二人を包み込む。
傷ついた大地には、確かな芽吹きが広がっていく。
それは神話の再現であり、
同時に――人の新たな時代が、歩き出す合図でもあった。
「シオン……」
ニナは涙を拭うこともできず、震える唇と名を呼んだ。
だが次の瞬間――胸の奥を引き裂かれるように、彼女は振り返る。
戦場の向こう。
癒しの余韻を宿した雨に濡れながら立つ、銀色の髪の青年。
愛しい人――ルイス。
その瞳は強く、しかし一瞬だけ、揺れた。
どこか痛みを抱えたように苦しげに、まっすぐ彼女を見つめていた。
「……ルイス……」
その呼びかけに、彼はわずかに視線を伏せる。
短い沈黙ののち、彼はもう迷っていなかった。
胸に刻んだ覚悟が、彼を前へと進ませていた。
彼はゆっくりと息を吐き、少年のように澄んだ笑みを浮かべる。
雲間から淡い光が差し込み、雨粒が静かにほどけていく。
その光の中で、ルイスは穏やかに口を開いた。
「……君は自由だ。」
その一言は、戦場の空気をやさしく揺らした。
命令ではない。縛りでもない。
ただ――彼なりに誰よりも彼女を愛した男の、最後の約束。
「愛しているなら……そいつと生きろ。
私は……君が笑って生きる未来を守る。」
ルイスは、その愛を己の手から静かに放した。
それは敗北ではなく、自ら選び取った誇りだった。
ニナの胸に、これまでの想いが込み上げる。
彼の真摯な瞳。
寄り添ってくれた優しさ。
そして――愛されるという幸福。
まだ愛している。
けれどその奥で、心は別の光へと導かれていた。
シオンとユリア。
この愛は運命そのもの。
それは炎ではなく、太陽のような愛だった。
「……ありがとう、ルイス……」
震える声で告げたとき、涙は雨に溶けるように地へ落ちた。
それは別れであり、感謝だった。
ルイスは小さく頷き、ゆっくりと背を向ける。
その背は、すでに一人の男ではなく、未来を背負う王太子のものだった。
雲は流れ、戦場に淡い光が満ちていく。
ニナはその背を見送り、胸の痛みとともに、静かに息を吐いた。
不思議な安堵が、胸に満ちていく。
誰かを失ったのではない。
三人が、それぞれの居場所へ戻った――そんな感覚だった。
光の中に立つ二人。
一人は黒竜の化身、シオン。
一人は未来の王、ルイス。
シオンは、ルイスに敬意を込め、静かに一礼する。
そして優しい眼差しで、ニナをゆっくりと抱き寄せた。
ニナの肩から、ふっと力が抜けた。
彼女はその腕の中に身を委ね、胸の奥が、じんわりと熱を帯た。
「私も……愛してます……」
その言葉が届いた瞬間、雨は完全に止み、春の光が大地を包んだ。
芽吹きの気配が戦場に満ち、季節は前へと進み始めていた。
それは、戦の終わりを告げる――
静かで、だが揺るぎない始まりだった。




