第62話 黒竜と乙女ーー愛おしい記憶
黒竜の背に乗るニナは、震える手を必死に握りしめていた。
眼下に広がるのは、剣と血と叫びに満ちた戦場――。
冷たい風が頬を裂き、視界を揺らす雪は、恐怖と現実を曖昧にする。
――怖い。
――けれど。
胸の奥で繰り返す言葉は、ひとりの乙女の叫びであり、同時に、進むと決めた者の祈りだった。
「ユリア様……わたしは、あなたと共に――」
黒竜の巨大な心臓が鼓動するたび、背に立つニナの身体にも熱が伝わる。
不思議なことに、その熱は恐怖を少しずつ溶かし、代わりに勇気を満たしてゆく。
「ニナ、しっかり掴まって」
――竜の声が、確かに聞こえた。
彼女だけに届く、低く穏やかな響き。
次の瞬間、黒き翼が力強くはためき、雪原を切り裂いた。
竜の咆哮が轟き、敵の魔物たちは本能的な恐怖に足をすくませる。
やがてその咆哮は、風を呼んだ。
天と地の狭間から吹き荒れる旋風が、進軍する兵を押し戻し、旗をなぎ倒す。
立っていられる者は、もはや誰一人としていない。
それは怒りを封じる“壁の風”――ただ、踏みとどまらせるための力だった。
代わりに、天を貫くような閃光が落ち、大地が悲鳴を上げるように割れた。
轟音と共に地は揺れ、風は叫び、あらゆる者の動きを止める。
黒竜の眼光が戦場全体をなぞると、その視線だけで兵たちの剣が震え、盾を握る手から力が抜けた。
圧倒的な“存在”の前で、誰もが悟る――戦っても意味がない、と。
「ひ……ひぃっ!」
「もう……無理だ……」
だが、雷は人を撃たなかった。
殺すための力ではない――争いを終わらせるための力。
竜の咆哮が空気を震わせ、兵士たちの心から怒りを削ぎ落とす。
恐怖を超えた静寂が、戦場を包み込んだ。
――人を殺さぬ竜。
兵士たちはそれを目の当たりにし、呆然と立ち尽くす。
これは、ただの戦いではない。
自分たちは、抗ってはならない何かを前にしているのだと。
「……黒竜が……」
「攻めてこない……」
「あの娘が……竜の背に……」
戦場にひざまずく者が、ひとり、またひとりと増えていく。
味方も敵も、その光景から目を逸らせなかった。
黒竜は再び翼を広げる。
その背で、ニナは両手を胸元で握り、祈っていた。
彼女の瞳には、恐怖を越えた静かな光が宿っている。
――もう、離さない。
――この争いを、ここで止める。
黒竜の咆哮と、乙女の祈り。
その二つが重なった瞬間、吹き荒れていた吹雪が止んだ。
空の白が裂け、黄金の陽光が天より降り注ぐ。
そして、光の中からやわらかな雨が舞い降りた。
それは炎でも雷でもなく、鎮めるための慈雨。
敵兵の荒れた息を鎮め、魔物の暴走を抑えるように降り注ぐ。
誰もが武器を落とした。
鎧の金属音が、祈りの鈴のように響く。
その音が止むころ、戦場は完全な静寂に包まれていた。
人々はただひとつの光景を、言葉もなく見上げていた。
――黒き竜と、その背に在る乙女。
ルイスは見た。
かつて胸に抱いた、愛おしい記憶の延長のように。
そして理解した。
この姿は、奪われたのではない。
最初から、こうあるべき光景だったのだと。
言葉になる前から魂が知っていたように。
雪はやみ、雲が流れ、太陽が姿を現す。
その光は、争いが終わったことだけを、静かに告げていた。
雪原は、やがて語られるであろう出来事を胸に秘めたまま、
沈黙の舞台として、ただそこに在り続けていた。




