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第61話 黒竜来臨 ― 真の光

戦は予定の刻限より早く始まった。


敵軍が繰り出した魔物の一部が制御を外れ、雪原を蹂躙するように暴れ出したのだ。

半ば奇襲に等しい衝撃。


味方の兵は次々に倒れ、戦列はみるみる乱れていく。

マグヌス公爵は胸を貫かれ血を吐き、指揮を執れぬまま後方へ運び出された。

さらに王自ら槍の穂先を受け、鮮血が白雪に散る。


ラディエンス軍を率いるフェルディナンド辺境伯も必死に奮闘するが、前へ進むことは叶わなかった。

押し寄せる魔物の群れに阻まれ、ただ兵を守るのに精一杯である。


ルイスは孤軍奮闘して蒼き剣を振るった。

春の光を帯びた銀髪が、血と雪を浴びてなお鮮烈に輝く。

だがその剣さばきも、数で押し寄せる敵の前には限界がある。


彼の視線の先には、吹雪の向こうに沈みゆく兵たちの姿。

心の底で、誰かの名を呼んでいた。

――ニナ、と。


アレクシアは火剣を振るいながら、己の無力を痛感していた。

どれほど鍛錬を重ねても、竜の血を継ぐ貴族とて、この数の暴力には抗えない。


そのとき――彼女の視界に飛び込んできたのは、粗末な槍を握る平民兵たちだった。


魔力も持たず、錆びた武器しか持たぬ彼らが、必死に魔物に食らいついていた。

傷だらけの体を奮い立たせ、仲間を守るために泥にまみれ、血を吐きながらも倒れずに。


弱いはずの者たちが、己よりも強い勇気を見せていた。


――自分は彼らを、ずっと見下していた。


胸を突く痛みに、アレクシアは唇を噛みしめた。


白い雪が赤黒く染まり、春の大地が悲鳴を上げていた。

兵たちの目からは光が消え、もはや勝利など誰も信じられなくなっていた。


そのときだった――。


戦場に、突如として異様な震動が走った。

大地が低く唸り、雪原の下に潜む巨獣が目を覚ましたかのように、兵も魔物も一斉に動きを止める。


次の瞬間――


天を裂く、雷鳴のごとき咆哮が轟いた。

それは怒りでも、憎悪でもなく――ただ、圧倒的な存在の証。

雪雲が震え、裂け、黒き翼がその隙間から広がる。


「……竜、だ……!」


誰かが震える声で叫んだ。


灰色の空を、嵐を断ち切るような一陣の風が駆け抜ける。

黒曜石の鱗を纏い、闇そのものを背負ったような巨影が、轟音とともに舞い降りた。

翼の一振りで吹雪は吹き払われ、雪原はまばゆい白光に包まれる。


恐怖と絶望に沈んでいた兵士たちは、その光景に息を呑んだ。

魔物を率いる敵兵すらも足を止め、竜の威光に呑まれて怯えた。


――だが、それだけではなかった。


黒竜の背に、外套に包まれたひとりの女性が静かに座していた。

吹き荒ぶ風を受けながらも背筋をまっすぐに保ち、両の手を胸の前に重ねるその姿は、祈るように凛としていた。

春の雪の中で舞い降りたその姿は、まるで天より遣わされた存在のように。


「……あれは……ニナ殿……?」


フェルディナンド辺境伯が呆然と呟く。


後方で血に濡れた担架の上に横たわっていたマグヌス公爵も、かすむ視界を必死に押し開き、空を仰いだ。


「……黒竜……そしてあの娘……これこそが、真の……」


老将の頬を血と涙が伝い、声は震え、誰に隠すこともなく空へと零れ落ちた。



レオニス王もまた、血にまみれながら顔を上げ、呆然とその姿を見つめる。

彼の唇から、震える吐息が零れた。


「……ユリア……来てくれたか……

これが、伝説か――」


戦場は一瞬、静まり返った。


次の瞬間、黒竜の瞳が赤紫に燃え上がり、敵陣を鋭く射抜く。

その翼がゆるやかに広がった瞬間、漆黒の風が奔り、魔物たちの群れを一息に押し流した。

敵の巨躯は崩れ落ち、戦場を埋め尽くしていた絶望の影が、急速に後退していく。


最初に膝を折ったのは誰だったか分からない。


だが次の瞬間、無数の兵士が剣を地に突き、膝を折り、頭を垂れていた。

歓喜と畏敬の叫びが、雪を越えて轟く。


「黒竜だ! 黒竜が我らの側に!」

「聖女が……黒竜と共に……!」


絶望しかなかった戦場に、光が差し込む。


その光の中で、黒竜の背にいるニナの長い髪がふわりと舞った。

白と黒のあわいの中、彼女の姿は春を告げる女神のように見えた。



ルイスは愕然と立ち尽くしていた。


――愛しいニナが、竜の背に静かに座り、その瞳を高く掲げている。

その信じがたい光景に、目が離せなかった。


ルイスは息を呑む。

見上げたその姿に、胸の奥から熱いものがこみ上げた。


彼女は、もはや“侯爵令嬢”でも、“侍女”でも、“王太子妃候補”でもなかった。

風に翻る黒髪も、光を映す瞳も――もはや俗世の枠には収まらぬ、聖なる輝きを宿していた。


「……ニナ……」


その名が、凍える唇から零れ落ちる。


彼女は手の届かないところへ行ってしまったのか。

それでも、あの光の中にいるニナを見て――彼は誇らしさを覚えた。


一瞬、戦場の音が遠のく。


降り注ぐ光と雪の白が溶け合い、彼女の姿だけが鮮明になる。


――なぜか、胸の奥が静かだった。

理由も分からず、ただ懐かしい。

かつて、どこかで、この光景を知っていたような気がした。


それは夢だったのか、記憶だったのか。


恋でも、痛みでもない。

もっと昔、まだ剣の名も知らなかった頃に胸に灯った、

憧れと敬意が溶け合ったような感覚だった。


――美しい。

神話の中にのみ存在するはずの、希望の化身のようだ。


けれどその背に寄り添う影を見た瞬間、ルイスの胸に鈍い痛みが走った。


黒竜。

あの存在が、彼女を包み、護っている。

それが誰であるか、ルイスには分かっていた。


「……シオン……」


彼の声は風に掻き消える。


愛していた人が、別の誰かの“運命”として生きている。

だがその事実に、なぜか嫉妬よりも深い安らぎが滲んだ。


彼女はもう、守られるべき人ではない。

誰かの希望であり、世界そのものを照らす光だった。


吹雪が静まり、空が裂ける。

黒き翼が広がり、光が溢れ出す。


ルイスは力強く剣を掲げた。

全てを受け入れ、祈るように。

そして、世界の行く末を信じるように。



兵士たちの胸には、再び戦う勇気が燃え上がっていた。

その熱は嵐を越えて広がり、春の雪をも溶かすように、大地を包み込んでいった――

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