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第60話 共に――雪原を越えて

春の雪は柔らかくも冷たく、慈悲よりも静かな死を思わせた。


白の無限。


夜が明ける気配だけが、雪雲の奥に滲んでいた。

昼か夜かも分からぬほど、世界は白に閉ざされていた。


舞い散る雪片は刃のように頬を打ち、容赦なく体温を奪う。

外套の裾は凍りつき、足は鉛のように重くなり、やがて膝が雪に沈んだ。


「ユリア様……ご無事で……どうか戦を終わらせてください……」


凍える指先を胸に当て、彼女は声にならぬ祈りを紡ぐ。

胸の奥で、ユリアの笑顔が微かに揺れる。

彼女の優しさが、凍える心に灯をともす。


守られるだけでなく、彼女を支えたい――そんな願いが痛みのように胸を打った。


(ルイス……ごめんなさい。けれど私は……)


瞼は鉛のように重く、雪の重みとともに世界が遠のいていく――。


その瞬間、遠くで雷鳴が響いた。

空が、まるで心臓の鼓動のように震える。

次の瞬間、吹雪が裂け、稲妻が夜のように沈んだ空を切り裂いた。

その光の中に、黒い影が現れた。


大地を揺るがす轟音が、死にかけた意識を呼び戻す。

吹雪を裂き、天地を貫く咆哮が、魂の奥にまで響いた。


ニナが薄く瞼を開けたとき、そこには――

雪雲を裂いて現れた、夜そのもののような影があった。

漆黒の鱗が嵐を弾き、翼の一振りで天地が震える。


黒竜――。


紫の瞳が、倒れ伏す小さな人影を捉えた瞬間、竜の巨体がわずかに揺れた。

咆哮が、必死な呼びかけへと変わる。


〈まだ、息がある〉


低く抑えた声が、雪嵐を震わせる。


ためらいは一瞬もなかった。

黒竜は大地に身を伏せ、巨大な首を曲げて、凍えきった身体を翼の内へと包み込む。


その紫の瞳は深き夜を宿しながらも、懐かしい光を帯びていた。

吐息に混じる焔は、灼くためではなく、壊さぬよう細く、細く制御される。

凍えた身体を包む温もり。

それは、命を呼び戻すための熱だった。


〈大丈夫だ。離さない〉


竜の声が、震えを含んで胸に届く。


その温もりに触れた瞬間、ニナの胸の奥で、またあの光ーー

かつて見た名も場所も思い出せぬ何かの光が、微かに脈打った。


涙に濡れた唇から、ニナは掠れる声を絞り出した。


「……ユリア様……無事でよかった……来て……くれた」


雪が静かに舞う中、轟音ではなく、あまりに優しい声が胸に届く。


『……ニナ。会いたかった。待たせて、ごめんね』


竜の声はユリアの声色とは異なる。

だが、不思議な確信が胸を打つ――これはユリアだ。

そしてなぜか分かる。

竜の言葉のすべてが、意味を伴って心に届くことを。


ニナの頬を伝う涙が、竜の鱗に落ちて蒸気となる。

その白い煙が、ふたりの距離を優しく繋いでいた。

雪の匂いの中に、春の風の香りが混じる。

それは再会の証のように、静かに世界を満たしていった。


黒竜は低く唸り、静かに告げる。


『戦がもう始まったようだ。……あなたを安全な場所に送る』


ニナは首を振り、雪に濡れた頬を上げた。

「いいえ。……もう離れない。わたしも一緒に戦います」


その言葉に、紫の瞳が揺れる。

一瞬、翼の内に込めていた力が強まり、彼女を失う未来が脳裏をよぎる。

逡巡ののち、低く押し殺した声が零れた。

『……危険だ。私は……ようやく力を制御できるようになった』


それでも、ニナの瞳は揺らがなかった。


「なら、わたしを隣に置いてください。あなたをひとりにしない」


――ひとりで戦ってほしくなかった。

孤独に背負わせたくなかった。

それだけで、もう十分な理由だった。


吹雪が弱まり、静寂が訪れた。

雪の帳の向こう、東の空がかすかに朱を帯びる。

夜明けとともに、ふたりの運命が重なった。

その沈黙の中で、ふたりの心臓の鼓動だけが、確かに響いていた。


長い沈黙の末、黒竜は静かに頷いた。


巨大な背が雪を踏みしめ、翼は天へと広がる。

ニナは鱗に手をかけ、震える手足で必死に登った。

黒竜は、凍えないよう、落ちないよう、彼女を魔法で守る。


その力には、二度と失わぬという誓いが込められていた。


瞬間、翼が一閃し、雪雲を突き抜けた。

春を忘れた空を裂いて、黒と白の狭間を駆け抜ける。

凍てついた世界の中で、ふたりだけが確かに生きていた。


ニナは、竜の背で息を整えながら、そっと目を閉じた。

恐怖は消えていなかった。

けれど、それ以上に強く胸にあったのは、共に進むという覚悟だった。


黒竜はただ前を見据え、戦火の気配が立ちのぼる地平へと飛ぶ。

その背に、ひとりの大切な女性を乗せて。


互いを選び、並び立つと決めた――

二人の意志が、戦場へ向かっていた。


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