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第59話 湖畔の夢 ― 守りたかったもの

湖は、朝とも夕ともつかぬ光をたたえていた。


風はなく、水面は鏡のように静まり返っている。


岸辺の白い石に腰を下ろし、黒髪の若い女性は幼子を抱いていた。

まだ二つになるかならぬか、その小さな身体は、彼女の腕の中ですっかり眠りに落ちている。

かすかな寝息が、衣をわずかに上下させていた。


「この子ったらね」


声をひそめ、彼女は困ったように、だが嬉しそうに笑う。


「走り疲れて、こんな所で眠ってしまったの。普段は、いくら寝かしつけても全然なのに」


湖畔の木立の影から、銀髪の青年が歩み出る。

名を呼ばれることはない。ただ、そこにいることが自然であるかのように。


彼は答えず、その光景を見つめていた。

子を抱く腕の確かさ。眠る命を包む温もり。

その微笑みは、湖の光を集めたようで。

世界にとって、これ以上の宝があるだろうかと思うほどに、愛おしかった。


「起きていたら、きっと喜んだわ」


彼女は青年を見上げる。


「あなたと遊びたがっていたもの。この子はあなたが大好きだから」


青年は微笑み返した。

彼女のその笑顔を、胸の奥でそっと抱きしめるように。


「……あなたが、いつか」


彼女はふと、湖へ視線を戻す。


「結婚して、子を持ったなら。この子と、仲良くしてくれたら嬉しい」


それは何気ない願いのようでいて、確かな未来だった。


「あなたの子は、きっと強くて、優しい。あなたがそうだから」


青年の胸が、かすかに痛んだ。

敬意。憧れ。守りたいという想い。

それらが、いつからか別の名を帯びてしまったことを、彼は知っていた。


「私は、あなたを――」


言葉は、喉の奥で止まった。

その続きを告げれば、きっと彼女を困らせる。

それだけは、分かっていた。


その瞬間、彼女がふっと視線を上げた。


「ねえ」


穏やかに言う。


「ここにいるとね……セルジュに会えそうな気がするの」


青年の言葉を、柔らかく遮るように。


「でも、不思議でしょう。どこにいても、私は独りじゃない。

見えなくても、触れられなくても……ずっと、そばにいるの。彼に守られているって、分かるの」


胸に抱いた子を、そっと抱き直して。


湖面に、かすかな波紋が広がった。

青年は、何も言えなくなった。


彼女の心には、もう誰も踏み込めない場所がある。

それは閉ざされているのではなく、満たされきっているのだと、彼は理解した。


「あなたが、私を守ってくれたこと……感謝している。でもね」


彼女は、眠る子の額にそっと口づける。


「ずっと、ここに留まる必要はないの。あなたは、導く人だから。

多くの人に必要とされる場所が、他にある」


それは拒絶ではなく、祝福に近い別れだった。


湖面に揺れる光が、彼女の横顔を照らす。

その光の中で、彼女は微笑んでいた。

穏やかで、何ひとつ欠けていない笑顔だった。

青年は、その笑顔から目を離せなかった。


「背中を見せて、人を前へ進ませる人……あなたは、そういう方でしょう」


言い切ることはせず、ただ確かめるように。


「その先に、どんな未来が待っていても。

あなたなら、きっと歩いていける」


それは予言でも命令でもなかった。

ただ彼女が、静かに信じている未来だった。


「……承知しました」


青年はそれだけを口にし、深く頭を垂れる。


近づかないこと。

望まないこと。

その距離こそが、彼女の笑顔を守れる在り方なのだと、ようやく分かった。


恋は、胸の奥で静かに形を変え、再び敬意へと還っていく。


それは失われた恋ではなく、彼が選び続けた幸福だった。


湖は変わらず、穏やかだった。

光も、風も、すべてが柔らかく溶け合っていく。


やがて景色は、霧の向こうへと薄れていく。

名も、時も、理由も持たないまま。


それでも確かに、

この想いだけは、消えずに残っていた。

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