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第58話 出陣前夜 ― 愛の手紙

夜風が、帷幕の隙間をすり抜けた。


遠征軍の野営地。

焚き火の明かりが揺らめく中、ルイスはひとり、テントの中で小さな包みを開いた。


それは出立の日にニナが渡してくれたもの――

不器用ながらも心を込めて縫われた、手刺繍入りの白いハンカチと、柔らかな筆跡の手紙。


針目は少し歪んでいる。

けれど、その小さな花模様には、無事を祈る彼女の想いが、糸の一本一本に確かに宿っていた。


ルイスは思わず、ほんの微かに笑みを浮かべる。

控えめな香草の香りが、かすかに残っていた。


彼女の文字を目で追うたび、胸の奥がきゅっと痛む。

そこには日々の感謝の言葉と、「どうかご無事で」と短く添えられていた。


それだけ。

王太子妃候補としての誇りでも、未来の約束でもない。

――ただ、ひとりの女性としての優しさ。


手紙の端には、薄く透きとおる青い花びらが一枚、そっと挟まれていた。

かつて、彼が贈った〈蒼光草〉――春を呼ぶ花。


まだ蕾のはずのその花びらを、ニナはどこかから摘み、彼のもとへ託したのだろう。


『この花が咲くころ、またお会いできますように』――

そんな言葉が、インクの滲みのように静かに感じられた。


ルイスは花びらを掌に包み、しばらく目を閉じた。

冷たい夜気の中でも、かすかな香りが胸の奥を温める。


「……ニナ……」


僅かに青い瞳が潤み、呟いた声は、夜の風に溶けていく。


あの夜のぬくもりが、ふと蘇る。

春の雪が降る中、彼女を抱きしめた。


自分でも抑えきれぬほどの恐れと焦りが、愛の形を歪めてしまった。

“帰ったら結婚しよう”――

そう告げたあの瞬間の、彼女の揺れる瞳。

迷いと涙の気配を、忘れられない。


「……私は、あの夜……」


声に出すと、胸の奥がきしんだ。

それでも彼女は、優しく包み込むように応じてくれた。


胸の奥で、わずかに熱が疼く。

彼女を守ると言いながら、守れぬ方法でしか愛せなかった。


彼女が王妃になることを、幸福だと思っていた。

それが正しい未来だと、疑いなく信じていた。


けれど、今になってようやく気づく。

ニナはそんな単純な女性ではなかった。


王妃としての冠よりも、人の笑顔や明日の希望を大切にする――

そんな人だった。


「私は……ただ、自分だけのものにしたくて。

恐れを抱えたまま、縛っていただけなのかもしれない」


思い出す。

誠実に、楽しそうに未来を語るニナの笑顔。


その笑顔に惹かれ、いつしか私は、彼女を幸せにしたいと願うようになっていた。


それなのに――

危険にさらされても、誤解されても、決して人を責めなかった彼女の強さに、私は甘えていた。


寄り添うべきときに、立ち止まってしまったのは、私自身だった。


焚き火の光に照らされた手紙の紙が、わずかに揺れる。

その白さが、まるで彼女の手のように思えた。


――王妃としての幸福。

それは彼女にとって、自由のない檻なのかもしれない。


彼女を失いたくない。

私には、ニナが必要だった。


(他の誰にも、渡したくない。……シオンであっても)


ユリアであり、黒竜シオンの真っ直ぐな瞳を思い出す。

もしニナが彼を見て笑うなら、それは本物の幸福かもしれない――

だが同時に、たとえそれが真実であっても、受け入れられない自分がいる。


「……どうすればいい、ニナ……」


王としての責務がある。

国を再建し、民を導かねばならない。


だが、一人の男としての心は、彼女の微笑みを追いかけている。


やがて、遠くで角笛が鳴った。

明日には軍が進軍を開始する。


ルイスは手紙を胸に戻し、静かに目を閉じた。


掌の中には、まだその花びらの柔らかさが残っていた。

それは彼女のぬくもりのようで――

同時に、“必ず春が来る”という希望の証でもあった。


風がテントを揺らすたび、ニナの声が聞こえた気がした。

――「ありがとう。どうかご無事で。」


その言葉に、ルイスの胸に浮かんだ、かすかな笑みがこぼれる。

それは、痛みと慈しみに満ち、あまりに哀しくも美しかった。

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