第57話 密かな決意 ― ニナの旅立ち
春のはずだった。
けれど空はまだ冬を引きずり、花の蕾を覆うように、白い雪がしんしんと降り積もっていた。
軍勢がその雪原の彼方へと遠ざかり、街の喧噪がひとつ、またひとつと消えていく。
白い息が夜の冷気に溶け、空気は痛いほど澄み渡っていた。
残された静寂の中で、ニナの胸は烈しく揺れていた。
(ルイスも、皆……勇敢に戦へ行った。なのに私は、ただ祈るだけの存在なの?)
ルイスの面影が、胸の奥で微かに灯る。
あの人の傍にいるとき、自分は確かに守られていた。
けれど――いつかは、自分の足で隣に立てるようになりたい。
彼のためにできることを、“祈る”だけで終わらせたくはない。
城の奥に籠もり、無事を願うこと。
それが彼女に許された唯一の務めだった。
だが胸を締めつけるこの焦燥は、恐怖ではなく渇望――誰かに守られるのではなく、自らもまた誰かを守りたいという願いだった。
春の雪に霞む記憶の底から、ユリアの言葉が甦る。
――「必ず戻ってくる」。
その声を信じて待つだけでは、届かぬほど遠い気がしてならなかった。
「……ただ、待つことなんてできない」
唇からこぼれた呟きは、凍てつく夜空に散った。
空を仰げば、雪の粒が星のように瞬きながら落ちてくる。
まるで天が彼女の決意を試すように――。
夜明け前、軍の旗が雪の帳に消えていくのを見届けたとき、胸の奥で何かがはっきりと形を持った。
ニナは部屋へ戻ると、誰にも告げず旅装を整えた。
机の上には、小さな鉢植えがあった。
淡い水色の蕾が、春の雪の光を映してかすかに輝いている。
二年前の冬、ルイスが贈ってくれた珍しい花――〈蒼光草〉。
固い蕾のまま、春を待っていた。
彼がこの花を渡してくれた日のことを思い出す。
〈君が笑う場所に、この花が咲けばいい〉。
――その言葉が、今も耳の奥に残っていた。
ニナは静かに水を注ぎ、指先で葉を撫でながら囁いた。
「無事に帰ったら……咲くところ見せてね」
その声はかすかに震えていたが、瞳には確かな光が宿っていた。
そして、引き出しの奥から小箱を取り出す。
そこに眠っていたのは、ユリアから贈られたアメジストの首飾りだった。
かつてルイスがそれを見たとき、寂しそうに視線を逸らしたことを思い出す。
だからしばらく仕舞っていた。
――けれど今は違う。
ニナは首飾りをそっと手に取り、雪のように冷たい鎖を首にかける。
紫の光が胸もとで揺れ、まるでふたりの想いをひとつに包むようだった。
扉の方へ視線を走らせ、気配がないことを確かめてから、小さく息を吐く。
(ユリア様……どうか見守ってください)
背に外套を羽織り、荷を手にし扉を開けて歩み出したそのとき――
背後から柔らかな声が響く。
「……やはり、行くつもりだったのだな」
振り向けば、闇の回廊に立つひとりの男。
カイロス・レイザルト侯。
その銅の瞳は、夜明け前の雪よりも深く静かだった。
「止められると思っていました」
「止めるつもりなどない」
低く響く声には、わずかな安堵と誇らしさが滲んでいた。
「お前がそう決めたのなら、それでいい。
……実を言えば、私もお前を行かせるつもりだった」
カイロスは懐から封蝋を押した小さな書状を取り出し、彼女に差し出す。
「これは通行許可だ。
軍に後から合流する補給隊に託してある。
お前は“医療班の補佐”という名目で同行するがいい。
――ユリア殿下のもとへ向かえ」
「……ユリア様?」
ニナは思わず息を呑んだ。
「行方が分からないはずでは……?」
カイロスは一瞬だけ目を伏せ、雪明かりを映す瞳が微かに揺れた。
「ユリア殿下は、黒竜の力を制御するため、密かに修行を続けておられた。
誰にも縛られず、誰かの期待に縋ることもなく――ただ、自分の意思で生きようとしていた。
そして国の危機を前に“自ら戦場へ向かう”と」
「そんな……!」
ニナの喉が焼けつくように痛んだ。
あの優しい微笑みの奥に、どれほどの孤独と決意があったのだろう。
彼女を理解していたのはほんの少しだけ――その距離が、胸を裂くほどに悔しかった。
冷たい空気の中、胸の奥からあふれるのは恐怖ではなく、圧倒的な衝動だった。
会いたい。
あの人に――ユリアに。
あと、もうひとり。
――シオンの名を思い出したとき、胸の奥がかすかに疼いた。
カイロスは彼女の表情を静かに見つめ、穏やかに頷いた。
「行け、ニナ。
……あの子を頼む。
お前だけが、ユリア殿下を本当の意味で支えられる」
カイロスは一瞬言葉を選ぶように続けた。
「――お前の友であるシオンも、すでに前線へ向かった。
二人とも、孤独な戦いをしているだろう」
「シオン……」
その名を呼ぶ声が震えた。
胸の奥に、痛みと温もりが入り混じる。
無邪気に笑い、明るい瞳でいつも自分を励ましてくれた少年。
あの穏やかな笑顔、ふとしたときのまなざし――思い出すほどに、胸の奥が苦しくなる。
放っておけない。
守りたい、失いたくない――その想いだけが、確かなものだった。
カイロスは静かに微笑んだ。
「ああ、そうだ。
お前を大切に想っている。
だからこそ、お前は強くあれ。
……私も信じて任せよう」
胸の奥が熱くなる。
叱責ではなく、信頼。
それがどれほどの支えとなるか、ニナは知っていた。
やがて東の空が、わずかに朱を帯びはじめた。
雪の帳の向こうに、夜と朝の境が滲む。
ニナはカイロスが用意した補給隊の荷馬車に身を潜め、まだ眠る街を後にした。
胸元でアメジストが小さく揺れる。
その胸には、ルイスへと――ユリア、そしてシオンと共に無事に帰るという誓いが宿っていた。
凍てつく風の中、遠くに見える山並みの向こう――
そこに三人の運命が交わる場所がある。
その想いが、彼女の足を前へと押した。
だが道は想像以上に険しかった。
王都を発って六日目、昼を過ぎた頃、吹雪が再び荒れ狂い始める。
前を行く馬のいななきがかき消され、視界は白一色に染まった。
ぬかるんだ斜面で荷馬車の車輪が深く沈み、隊列が乱れる。
混乱の中、ニナの乗る車だけが別の支道へと流されていった。
呼びかける声も、雪の壁に吸い込まれて消えていく。
気づけば、彼女はただ一人、白の世界に取り残されていた。




