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第56話 春雪の暁、最後の夜に寄せて

春の光が戻り始めたというのに、王都にはまだ季節外れの雪が残っていた。


白い息が立ちこめ、石畳には薄い氷がまだ張りついている。

けれど木々の枝先には、芽吹きの気配がわずかに見え、冬と春とがせめぎ合うような冷たさだった。


隣国からの宣誓布告からひと月。

戦の足音は容赦なく迫り、王都は不安の影に覆われていた。

黒竜を欠いたアヴェルシアの戦況は、誰の目にも不利と映っていた。


マグヌス公爵は白い髭を震わせ、玉座の間で声を上げた。


「我が軍は、この老骨が先陣を切る。もはや時は残されておらぬ」


その背には、死を覚悟した者だけが纏う重い影が落ちていた。


そして、現王レオニスは静かに立ち上がった。

壮年の体はなお逞しく、琥珀の瞳には鋭い光が宿っている。


「王は民と共にある。ゆえに我もまた、剣を執り前線に立つ」


その宣言に、玉座の間は一瞬の静寂ののち、熱を帯びた歓声で満たされた。

誰もが、五十を過ぎてもなお剣を取る王の気迫に息を呑んだ。


だが黒竜の不在――あの守護が見えぬ空は、どうしても影を帯びて冷たく感じられた。


それでも、城下の広場では別の熱が芽吹いていた。


ルイス王子のもとに集う王国騎士団は、甲冑の輝きと規律ある行進で人々の目を奪い、

若き英雄の背を追おうとする平民たちが次々に志願していた。


鍛冶屋が槌を剣に持ち替え、商人が槍を携え、農夫たちが肩を並べる。

決して訓練された兵ではない。

だが、その眼差しは勇敢で、国を守ろうとする誇りに満ちていた。


改革派の貴族たちは、その光景を見て互いにうなずき合った。

彼らは平民の力を利用しようとしながらも、確かにその気迫に胸を打たれていた。


その中心に立つルイスは、剣を掲げて声を放つ。


「身分も血も関係ない。

この国を守りたい者は、皆、我が同胞だ!

共に立ち、共に剣を振るおう。

勝利は必ず我らの手にある!」


凛然たる響きに、騎士も平民も一斉に鬨の声を上げ、広場は熱気に包まれた。


身分を越えて肩を並べる姿は、やがて来る戦の暗雲を一瞬だけ払うように、鮮烈で頼もしい光景であった。


国を懸けた決戦の幕が、いま静かに上がろうとしていた。



春とは名ばかりの夜。


雪混じりの風が、王都の石畳を白く濡らしていた。

軍の出立を明日に控え、城の回廊には張りつめた気配が満ちている。


鎧の擦れる音、兵の足音――

どれもが、これから訪れる死地を予感させるものだった。


その時、扉を叩く音がした。


「……ニナ」


聞き慣れた低い声に、胸が揺れた。

第二王子――いや、今や王太子ルイスが、そこに立っていた。

彼は、ためらうことなく彼女を抱き寄せる。


「最後の夜を……君と過ごしたい」


囁きは熱を帯び、雪夜の冷気を拒むように強く、切実だった。


ニナは胸の奥で震えながらも、唇を噛んだ。


「わたしも……前線へ行きたいのです。

あなたと一緒に」


勇気を振り絞った訴え。

しかし返ってきたのは、首を振る冷たい拒絶だった。


「駄目だ。君は待っていてほしい。

……私の帰りを」


その瞳に、王太子としての決意と、男としての切実な願いが同居しているのを感じた。

だからこそ、胸が痛んだ。


そして彼は言った。


「帰ったら……すぐにでも結婚しよう」


一瞬、どうしようもない甘美な響きが心を満たした。

けれど次の瞬間、胸に重い影が落ちる。


すぐに笑顔で応えたいのに。

彼を傷つけたくないのに。


拒めば、彼はさらに孤独になる。

そう分かっていても、言葉にできなかった。


「わたしは……」


だが、目にしたのはルイスの瞳。

悲しげに、冷たく光る瞳だった。


「何も言うな……」


今は言い争ってはいけない――

そう悟ったニナは、言葉を飲み込み、震える声で囁いた。


「はい……あっ」


ルイスは返事を聞かずに、彼女を強く抱き寄せ、そのまま押し倒した。


ニナの胸に、恐れと熱が交錯する。

愛する人が、見知らぬ人のように感じられてしまった。


だが、彼もまた苦悩していた。

明日の死地に赴く不安。

彼女を遠ざける冷たい言葉。


すべてが自分を責め立てていた。


強引に抱き寄せてしまったこと、怒りをぶつけてしまったことに、ルイス自身が深く傷ついていた。


だからこそ、ニナは震えながらも、できるかぎり優しく応えた。

それは従うためではなく、彼が生きて戻るための、ささやかな願いを込めたものだった。


互いの温もりに縋りながら、心を通わせるように。

外では、春の雪が音もなく降り続いていた。


甘くも悲しい夜が、静かに過ぎていった。



夜明け前――

雪解けとともに、冷たい靄が王都を包んでいた。


戦旗がはためき、甲冑をまとった騎士や兵士たちが城門へと集う。

吐息は白く、空気にはまだ冬の名残がある。


けれど遠くの空の端では、わずかに春の光が滲み始めていた。


王宮前広場には、民草までもが押し寄せていた。

誰もが祈るような眼差しで軍勢を見守り、名を呼び、涙を流していた。


先頭に現れたのは、銀の髪を朝光にきらめかせた王太子ルイス。

白馬に跨り、凛然と剣を掲げるその姿は、王国の希望そのものだった。


剣を掲げる手に、一瞬だけ力がこもったのを、誰が気づいただろうか。

昨夜、弱さと焦燥を見せた彼と、

いま堂々と立つ彼が同じ人だとは思えないほどに。


そして、レオニス王もまた黒馬に跨り、静かに軍勢の中央へと進み出た。

王の背は力強く、銀糸のような髪を春の風がなびかせていた。

その琥珀の瞳が兵を見渡すと、誰もが息を呑む。


「この命、国と民に捧ぐ。

――ゆけ、アヴェルシアの子らよ!」


その声が響くと同時に、兵たちは一斉に剣を掲げた。


マグヌス公爵は、燃えるような眼で前線を見据えていた。

白く凍える吐息を洩らしながらも、背筋は最後の戦いに挑む者の誇りで真っ直ぐに伸びている。


その姿を見た兵たちは、己の足を止めるまいと無言で気を引き締めた。


城壁の陰から見守るニナは、胸を押さえて立ち尽くした。


ルイスの背は、あまりにも大きく、あまりにも遠い。


胸の奥で――

「ルイス……どうかご無事で……」


不安が冷たい空気よりも鋭く、彼女の心を刺していた。

そして兵たちの群れを見つめながら、祈るように唇を震わせる。


「みんな、無事に帰ってきて……」


その時、ルイスが一瞬だけ振り返り、静かに微笑んだように見えた。

思わず、ニナの目には涙がにじむ。


太鼓が鳴り響く。

王国の命運を賭けた軍勢が、いま動き出す。


春まだ浅い風がニナの頬を打ち、

雪混じりの冷気に胸がきゅうと痛む――


まるで、これが最後の別れのように感じられた。


握りしめた手の中で、震える心を抱えながら、

ニナは春雪の暁に消えゆく昨夜の記憶を胸に刻んだ――

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