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第55話 春の雪

春のはずなのに、街にはまだ冬の名残が濃く残っていた。


冷たい風が石畳を渡り、淡い雪がひらひらと舞う。

溶けきらぬ白が屋根の端に残り、吐く息はかすかに白い。

それでも、空気の奥には柔らかな陽射しが差し込み、人々の表情には春を待ちわびる明るさが宿っていた。


春を迎える祭の陽光は冷たい雪を照らし、その光が石畳に反射して、幻想的な輝きを作り出していた。

雪片が光を受けてきらめくたび、冬と春の境が曖昧に溶け合っていくようだった。


だが、ニナの胸の内には、ぽっかりと影が広がっていた。

王太子就任後の巡礼や政務に追われるルイスは、遠出することもあり、ほとんど彼女の傍にいない。


夜更けにそっと部屋を訪れ、互いの温もりを求めることはあった。

けれど――それは確かに幸せで、彼に抱き寄せられるたびに心は震えたが、同時にどうしようもない不安も芽生えていた。

言葉を交わす時間もなく、ただ身を寄せ合うだけで、私たちは本当に心を分かち合えているのだろうか――

そんな思いを胸の奥に抱えたまま、時は過ぎていった。


そして――ようやく、昼間の誘いが訪れたのだった。


ルイスは少年のように弾む声で、「今日は一日、君を連れ出したい」と告げた。

その笑顔に、ニナの頬も自然と緩んだ。

胸の奥に積もっていた不安が、ほんのひとときほどけていく。


春を迎える祭の広場は、雪と光の海のようだった。


無数の花飾りと布旗が風に揺れ、舞い散る雪片が昼の陽光に照らされては融け、また降り積もる。

氷の彫刻が淡い光を反射し、白く霞む空の下では、冬と春がせめぎ合うようだった。

屋台から立ち上る香ばしい匂いや、焼き栗や甘酒を手に笑う人々の声が、冷たい空気に温もりを添える。


人々は多く集っていながら、不思議とその流れは二人の前で緩やかに割れていた。

誰かが気づき、誰かが袖を引き、声にならぬ囁きだけが静かに伝わってゆく。

それでも祝祭のざわめきは途切れず、誰一人として近づこうとはしなかった。


その道の端で、雪玉を落とした幼い子どもが立ち止まった。

王太子ルイスは歩みを緩め、ほんの一瞬だけ視線を向けて、目を細め静かに頷く。

それだけで子どもははっと息を呑み、頬を染め母に手を引かれて人波へ戻っていった。


その中を歩く美しい二人の姿は、誰の目にも絵のように映った。

簡素な外套に身を包みながらも、自然と周囲を制する気配を隠しきれない男。

その少し後ろに寄り添い、淡い色合いの衣の下に静かな存在感を宿す乙女。

高貴にして凛々しい王太子ルイスと、異国の血を宿す黒髪の娘――まるで絵巻の一場面のように。



けれど、ニナはふと、陽の光を受けて舞う雪を見上げ、静かに呟いた。

「……ユリア様も、このお祭りをご覧になれたら……きっと喜ばれるでしょうね」


その一言に、ルイスの微笑みが一瞬だけ固まる。

ユリア――その名を耳にするだけで、胸の奥にシオンの姿が浮かんでしまう。

ユリアとして毎日を過ごし、夜には「護衛騎士シオン」としてニナの側にいたあの男。

楽しげに笑い合う二人。

ニナを愛おしげに抱き抱えていた姿。


ルイスの胸には複雑な痛みが走る。

彼女の心に、いまもあの男の影が宿っているのではないか――

そう思うと、ルイスは声を荒げることなく、ただそっと彼女の指を強く絡めた。


――君の心を、どこへも渡したくない。


ルイスの指が絡むと、ニナの胸の奥がきゅっと鳴った。

嬉しい、でもなぜか苦しかった。


逃がさぬように強められた力に、ニナは何も言えず、ただその温度を受け入れる。


祭りの喧噪の中、二人の世界だけがひそやかに隔てられる。

屋台の甘い菓子を分け合い、氷像を眺め、時折視線が交わる。

笑うたびにニナの頬が陽光に染まり、ルイスの胸は温かなもどかしさでいっぱいになった。

彼女が隣にいることは奇跡のように尊い。

それなのに、その瞳の奥に自分以外の影を探してしまう自分が苦しかった。


だが、ふとした沈黙のあと、ニナの唇から零れた言葉が、彼を凍りつかせた。


勇気をかき集めるように唇を開き、彼女は言った。

「……あの、ルイス。わたし……しばらくのあいだ、レイザルト領に帰っても、よろしいでしょうか」


彼女は分かっていた。

この言葉を口にすれば、何かが壊れるかもしれない。

それでも――今、言わなければならない気がしていた。


ルイスは立ち止まり、目を見開いた。

祭の喧噪も、人々の声も、遠ざかっていく。

まるで時間だけが一拍遅れて、彼の中で止まったかのようだった。


「……帰る? どうして」


ニナは慌てて首を振る。

「いえ、その……ずっと王宮にいて、わたしの居場所がよく分からなくなってしまって……。

お役に立てているのか、不安で……」


その声音に、ルイスの胸を鈍い痛みが走った。

夏から今日まで、彼女を孤独にしていた事実を、思い知らされた。

政務のせいにできるとしても、彼女の笑顔の奥に潜む寂しさを気づかぬふりをしてきたのは自分自身だった。


ルイスはほんの一瞬だけ視線を彷徨わせた。

だが次の瞬間、その迷いを押し潰すように彼女の肩を抱き寄せ、低く強い声で告げた。


「駄目だ、行かせない。……君は、私の隣にいてくれなければ困る」


その切実な響きに、ニナの瞳が揺れる。

王になろうとする重責を背負う彼を支えたい。

彼の傍にいたい。いなければと思う。

けれど――


「でも……わたしより相応しい方が、きっと……」


「いない」


ルイスの声は鋭くも優しく、否定を許さなかった。

「春の王宮で行われる祝宴がある。

その場で、君との婚約を発表するつもりだ。

だからもう、不安に思う必要はない。」


ニナは驚きに目を見開いた。

婚約――その響きは甘美でありながら、同時に逃れられない鎖のようでもあった。

彼の愛に応えたい。

けれど、自分は果たして王太子妃として、王妃として支えられるのか。


揺れる想いを抱きしめるように、ルイスは自らのマントを広げ、ニナの肩を包み込む。そのまま胸元で深く覆われ、彼の体温の内側にすっぽりと収まった。


「寒いだろう」


耳元で囁かれる声は、優しくも切実だった。


ルイスの体温が近すぎて、息が詰まる。

頬が熱を帯びていくのを、自分でもわかった。

こんなふうに大切にされるたび、離れられなくなる。

けれど――


マントの内側で二人の体温が混じり合い、逃げ場のない近さが、かえって心を遠ざける。

ルイスは彼女の額に、そして震える唇に、そっと口づけを落とす。


その瞬間、昼の光の中で、白い雪片がふわりと舞い、光の粒となって二人を包んだ。

春のはずなのに、まだ冬が去りきらない――そんな奇跡のような午後だった。


その刹那――駆け寄ってきた従者が、息を切らせて声を潜めた。

「殿下……至急の報せにございます。隣国より、大規模な宣戦布告が届きました。」


春を告げるはずの祭の昼、

甘やかで、ほどけるほどに絡み合ってしまった時間は、

音を立てて崩れ去った。


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