第54話 伝わらない心、手放せない想い
その夜の夜会は長く続き、音楽も笑い声も途絶えなかった。
ルイスは早めにニナを帰らせた。彼は王太子としての役目を果たしたのち、人影の消えた屋敷の廊を歩く。
磨き上げられた大理石の床には灯の名残が淡く映り、
高い天井から吊るされた燭台が、金色の影を長く引いていた。
香の残りと夜気が混じり合い、祝宴の熱はすでに遠くへ押しやられている。
小さなため息がひとつ、冷えた空気に溶けた。
――もうこんな時間か。
あの部屋の灯も、きっと落ちている。
彼女はもう眠っているだろう。
今日の人前に出たニナは、いつもより一層艶やかだった。
久しく社交の場から距離を置いていたはずの彼女は、何ひとつ失っていなかった。
髪の先も、指先も、笑顔までもが光を帯び、男たちの視線を引き寄せていた。
彼女は愛想よく、どんな視線にも無防備に優しく応えた。
それは彼女の美徳であり、誇るべき在り方だと、ルイス自身が誰より知っている。
――だからこそ。
その姿が、胸の奥の棘を静かに押し広げる。
嫉妬は声を上げず、しかし確かに、熱を持って広がっていった。
ユリアが不在の日々、ニナの顔にはかすかな寂しさが宿り、
それを悟られまいとする微笑が、さらにルイスを苛ませた。
どこかへ行ってしまいそうで――手放したくなかった。
気づけば、彼女に向けられる好意の芽を、無言のまま摘み取っていた。
それがいつから始まったのか、自分でも思い出せないほど、自然な振る舞いになっていた。
彼女に届く恋文、茶会、夜会の誘いは全て破棄してきた。
──側に置く。
王太子として、彼女を守るふりをして、誰より近くに留めるために。
彼女に近づく者は排すべきだと、ルイスは自分に言い聞かせる。
それは守りなのか、独占なのか。
もはや自分でも線引きがつかなくなっていた。
その時、従者が駆け込んできた。
声は低く、報告は簡潔だった。
「殿下。ニナ様の部屋の窓が開いていると侍女の報告がございました。
念のため確認にやらせましたところ、机の上に出所不明の手紙が置かれておりました。
封は切られておらず、昼間には無かったとのことです。
ニナ様はお休みで、異変は見られませんでした。」
ルイスは紙を受け取り、封を切った。
そこに記された文字は――
愛しいニナへ。
私は元気にしております。心配かけてごめんなさい。
シオンも元気にしています。あなたのことを大切に想っています。
いずれあなたの元へ必ず戻ります。
だから、安心して待っていて。
愛を込めて、ユリア
文字は穏やかで、いつものユリアの筆跡そのものだった。
だがその一行一行が、ルイスの胸に針を打つ。
ユリア――ルイスは否応なく、あの男の存在を思い出してしまう。
ただ彼女の安否を伝えるだけの言葉が、熱く、鋭く心を貫いた。
ルイスは紙を握りしめた。震えは止まらない。
長い間抑えていた感情が潮のように押し寄せる。
守る理由を並べても、それはやはり――独占の色を帯びていた。
――このまま彼女の目に触れれば、どれほど心を揺らすだろう。
そう思った瞬間、彼は自分の正しさを疑うことをやめた。
振り返らず、ルイスは歩を進めた。
その指で紙を撫で、小さく息を吐く。
手紙は、彼の掌の内で静かに燃え上がった。
炎は一瞬で文字を赤く染め、やがて灰となって散る。
破れた痕跡だけが、冷えた床に小さく残った。
――守ることと、縛ることは、紙一重なのだと。
その違いを、彼はとうに知っていた。
それでもなお、手を離すことはできなかった。




