第52話 王妃の問いと、父の抱擁
宴の席を辞した。
祝宴の熱を吐き出すように、大広間を抜け、回廊へ出る。
灯は少なく、石壁は夜気を吸い込み、冷たい風が隙間を縫って流れていた。
凍てつく空気は、衣の上からでも骨身に沁みる。
胸の奥に残るざわめきが、冷気にさらされ、ゆっくりと輪郭を持ちはじめる。
(……もっと強くならないと。ルイスのために。
けれど――王妃として? それとも……)
その問いが、唇にのぼる前に。
「ニナ・レイザルト」
低く澄んだ声。
振り返るまでもなく、誰のものか分かる。
王妃ヴァレリア。
燭台の灯を背に立つその姿は、冷ややかでありながら、揺るぎない意思を宿していた。
赤みがかった銀髪は微動だにせず、極光を閉じ込めたような瞳が、逃げ場なくこちらを射抜いてくる。
「……少し、話があるの」
拒む余地はない。
ニナは一礼し、足を止めた。
「平民育ちのあなたに、王妃が務まるかしら」
前置きはなかった。
問いというより、量るための確認だった。
「テオドリクは言っていたわ。
あなたは聡明で、改革の助けになるだろうと」
一拍の沈黙。
「けれど――王妃の役目は違う」
ヴァレリアの声は低く、余分な感情を削ぎ落とした響きだった。
「飾りであること。
王家の血を繋ぐ母であること。
それ以上は、許されない」
「……私は、ただ……」
言いかけた言葉は、途中で途切れた。
――王妃になれば、何ができるのか。
ルイスに問うたとき、彼は答えた。
「君は政治に関わらなくていい。
政治は危険を伴う。
君には、ただ良き母として、傍にいてほしい」
その優しさが、今はひどく遠く感じられた。
「ルイスの寵愛が、いつまで続くかしらね」
王妃は、あえて彼を名で呼ぶ。
「純粋に彼を慕う令嬢は山ほどいる。
貴族も、豪商も、皆が彼を欲している」
視線が、逃げ道を塞ぐ。
「もし政治の都合で、あなたが前に立てなくなったら。
名だけを残され、役割を失ったなら――」
静かな声。
「あなたは耐えられる?
“愛されている”という理由だけで」
言葉は刃のように、しかし騒がしくはなく、胸の奥へ沈んでいった。
ニナは分かっていた。
その“愛”すら、永遠を約束されたものではないことを。
本来ニナが望むのは、守られることではない。
共に歩き、迷い、選ぶこと。
そして、あたたかな家庭を、同じ目線で育むこと。
その差は、音もなく、深く胸を裂いた。
「……あなたが抱いている夢は、きっと王妃には許されないわ」
ヴァレリアの声は鋭い。
その言葉に、過去に誰かが囁いた声が重なる。
――「王子は、貴方などに永遠を誓う方ではありません」
冷笑混じりのその声は、今も硝子の破片のように胸に残っている。
ルイスも、いつか他の人に目を向けるのだろうか。
……あの父のように。
駆け落ち同然で母を愛したはずが、やがて別の女へと走った実父。
その裏切りの記憶が、凍りついた硝子の欠片となって胸を突いた。
ふと、ヴァレリアの瞳の奥に、かすかな揺らぎを見る。
それは冷酷さではない。
怒りでも、蔑みでもない。
痛みだ。
愛と義務の間で選び、
選んだがゆえに失い、
それでも王妃として立ち続けてきた者の、古い痛み。
「……あなたは、聡明だわ」
唐突に、声の調子が変わる。
「だから言っておくの。
ここに立たない道も、あなたには選べる」
それは、一年以上にわたり厳しい妃教育を施してきた王妃が、
人前では決して口にできなかった言葉だった。
それが慈悲なのか、
あるいは王妃として示せる唯一の退路なのか。
ニナには、まだ判別できない。
「……」
答えを見つけられないまま沈黙するニナを、ヴァレリアは一瞥し、背を翻す。
衣の裾が静かに揺れ、香がわずかに残った。
その背は、最後まで王妃のものだった。
きっと政治的な事情もあり、ニナにこのようなことを言ったのかもしれない。
だが冷ややかなその背に、ほんの一瞬、優しさのようなものが滲んでいたのかもしれない――と、
少し後になってニナは気づく。
その時はただ、
残された回廊に、冬の冷気と、
王妃という座が突きつけた、逃げ場のない問いの重さだけが深く残った。
⸻
冷たい夜風が吹き抜ける人気の消えた中庭。
霜を帯びた木々の梢の間で、星が静かに光を宿していた。
先ほどまでの回廊の冷気とは違うはずなのに、胸の奥にはまだ、凍った問いが残っている。
「……ニナ」
振り向いた先にいたのは、養父カイロスだった。
侍女に頼み、少しの間だけ離れてもらっている。ニナの侍女は迷ったが、今夜の彼女が抱えているものを察し、同情と敬意を込めて静かに身を引いた。
――カイロス・レイザルト侯爵と二人きりになる。
王宮という檻の中で、肩書きを脱ぎ捨てられる数少ない瞬間。
これほど人目を気にせず心を交わせる時間は、長い日々の監視を思えば、まるで奇跡の贈り物のように感じられた。
その瞳は、侯爵ではなく――政治家でもなく、
ただの父としての色を宿していた。
「お前はよくやった。
ユリア王女を支え、
ルイス殿下をここまで導いた」
「……まさか、あそこまで惚れ込まれるとは思わなかったがな」
思わず頬が熱くなる。
ニナは一度、視線を落として指先を握りしめ、それからおずおずと尋ねた。
「私は……私の役目を、果たせましたか?」
カイロスは即座に答えなかった。
星明りに照らされた庭を一瞬だけ見上げ、そして静かに頷く。
「果たしたとも。いや――それ以上だ」
「お前は、私の計算も、覚悟も超えてみせた」
視界が滲み、頬を伝う雫。
厳しい養父の腕が、そっと肩に回される。
政治の場では決して与えられない、無条件の温もりが胸に広がった。
「……」
カイロスは何か言いかけたが、言葉を選ぶように一拍置き、その瞳に強い願いを込めて言った。
「自分を信じろ。
心のままに――
大切な人を支えて、進め」
そして最後に、わずかに口元をゆるめる。
「……王太子妃でなくてもいい。
どうせ私は、どんな立場にいようが、好きに政治に口を出すつもりだからな」
思わず涙がこぼれ、笑みがにじむ。
その言葉は硬い石のように揺るがず、同時に夜を照らす灯火のように胸に温かく残った。




