第51話 候補者たちの影
冷たい風が王都を包み、空気には新しい年の清冽さが漂う。
戦の爪痕はまだ消えきってはいなかったが、それでも王都は、この日を待ち望んでいたかのように、笑顔と歓声で満ちあふれていた。
王太子ルイスの即位――。
城下の広場には絹をまとう貴婦人も、泥に染まった平民も、等しくその姿を仰ぎ見ていた。
黄金の旗が冬空にひるがえり、行列は光の帯のように石畳を進んでいく。
鼓笛の音が高らかに響き、騎士たちの剣が白馬の背で凛としてきらめいた。
その先頭に立つのは、いまや「王太子」と呼ばれる若き英雄――ルイス・アヴェルシア。
――燦然たる輝き。
まるで神話から抜け出したかのような姿に、人々は熱狂を惜しまなかった。
王太子の即位は、国そのものの再編を意味していた。
ラディアンス辺境伯家は力強くその傘下に加わり、レイザルト侯爵家も誇り高く王太子を支える。
かつての宿敵グラシエラ家さえ沈黙を選び、表向きの調和を装った。
――だがその裏に、まだ見えぬ緊張が潜んでいる。
祝宴の大広間には百の灯がともり、金と紅の装飾が星々よりも眩くきらめいた。
絹の裾がすれ違い、甘い香水が空気を包み、人々は新たなる時代を祝う。
けれど、その光の只中で。
ニナだけが、得体の知れない寒さに身を抱いていた。
王太子の婚約者候補として視線を浴びながらも、胸の奥には深い孤独が広がっていた。
夜会のきらめきの中、ルイスは貴族たちと語らい、柔らかな笑みを浮かべていた。
かつての近寄りがたさはやわらぎ、その笑顔は人々の心を一瞬で解きほぐしていく。
舞踏の調べに合わせて揺れる燭台の灯火が、彼をまるで王そのもののように照らし出していた。
――こんなふうに笑える人だっただろうか。
かつては孤独を纏い近寄りがたい氷の王子だった彼。
今は柔らかく、周囲に笑顔を向け、誰とでも心を通わせようとしている。
その変化を、ニナは嬉しく思った。
けれど今の彼は、もう自分を必要としていないのかもしれない。
心臓がざわめき、呼吸が一瞬止まる。
この光の渦の中で、ニナは自分が影のように薄れていくのを感じた。
久しぶりの大きな社交の場とはいえ、未だに華やかな社交の場に慣れぬまま、彼を見失いそうになる。
そして令嬢たちと楽しげに言葉を交わす彼の姿に、胸の奥はさらにきゅうと締めつけられた。
令嬢たちの笑顔は眩しく、ドレスの宝石は流れ星のように煌めいている。
まるでその場のすべてが、「王太子の未来の花嫁」を映し出しているようだった。
それでも、ルイスは完璧だった。
その横顔は揺るぎなく美しく、隣に立つ自分こそが場違いなのでは――そんな思いが胸を揺らした。
語らう時間は減っていた。彼の微笑みの奥に――自分の居場所はないのかもしれない――
そんな思いが、静かに忍び寄ってくる。
ニナは忙しくするルイスから静かに離れ、目立たぬよう、壁際に身を寄せていた。杯を両手で支えながら、光景を見渡す。
しかしながら自分が視線の中心にあることを、否応なく感じ取ってしまう。
平民の血を引く三大貴族侯爵令嬢。
王太子ルイスに寵愛され、名を呼ばれ、隣に立った女。
それだけで、十分すぎるほどだった。
「……ご覧になって? あの方がニナ様」
控えめな声。けれど、偶然を装うには、少しだけ意図が透けている。
「ええ。確かに美しい方ですけれど……」
「ですが、王家の未来を考えますと、やはり血筋というものが……」
囁きは、花弁の裏に潜む棘のように、柔らかく、確実に刺してくる。
その輪の中心に立っていたのが、オルドレイ公爵家の若き令嬢、プリシアだった。
ニナを誘惑しようとしたダリウスの妹。ブルネットの落ち着いた髪色に、兄と同じ灰青色の瞳。
十七歳の自信と気品に満ちた立ち姿。
女性らしいしなやかな肢体、衣装の線を柔らかく押し広げる豊かさと、
完璧な微笑、生まれながらに身についた所作が、彼女を“正しい場所”に立たせている。
人々は「理想の后」と、思わずため息をもらした。
伏せられた睫毛の影が、慎ましさを装いながら、周囲の視線を集めていた。
彼女の周囲には、数人の令嬢たちが花のように寄り添っている。
「平民の血が混じっている方が、ここまで寵愛されるなんて……時代が変わったのでしょうか」
声は小さい。だが、偶然を装うには少しだけ、届きすぎていた。
含み笑いを噛み殺す気配に、ニナは胸の奥で小さく息を詰める。
そのときだった。
「ニナ様」
やわらかな声が、はっきりと名を呼んだ。
顔を上げると、プリシアが一歩前に出て、にこやかに微笑んでいた。
視線はまっすぐで、丁寧に一礼した。
「今宵は、お目にかかれて光栄です。三大貴族の侯爵令嬢でいらして、王太子妃候補でもあるお方と、こうしてお話しできるなんて」
言葉も、角度も、完璧だった。
年下でありながら、礼を失わない。
それは敵意ではなく、正統性という名の距離だった。
「……こちらこそ。お噂はかねがね」
ニナがそう返すと、プリシアは少しだけ頬を染め、首を横に振る。
「いえ、わたくしなど……。それに、最近ではスミト国の王女殿下も有力な候補だと伺っておりますし」
その名を聞いた瞬間、
ニナの胸の奥で、何かが静かに沈んだ。
――スミト国。
父の生まれた国。
そして、幼い頃の彼女自身が、暮らした場所。
懐かしさが胸をよぎると同時に、胸の奥がひやりと冷える。
(……知らなかった)
ニナは微笑みを崩さぬまま、指先に力を込めた。
杯の縁が、わずかに冷たい。
「……そう、なのですね」
声は、驚くほど平静だった。
プリシアは、ほっとしたように頷く。
「はい。国同士の結びつきを考えれば、とても自然なお話ですわ。わたくしなどより、ずっと……」
言葉は謙虚で、柔らかい。
けれど、その一言一言が、ニナの内側に静かに積もっていく。
スミト国の王女。
正式な血筋。
“選ばれる側”として、正面から迎えられる存在。
――同じ国の血を引きながら。
彼女は「平民の血が混じった娘」として、囁かれていた。
胸の奥で、幼い頃の記憶が、かすかに疼いた。
異国の言葉を話せば珍しがられ、
王都では、その訛りを隠すように教えられた日々。
「わたくしは……」
プリシアの声が、遠くに聞こえる。
「ただ、身の丈に合った立場で、王太子殿下をお支えできれば、それで十分ですの」
謙虚な言葉。
だがその裏にあるのは、自分が“相応しい側”に立っているという、揺るぎない自覚だった。
とりまきの令嬢たちが、満足げに視線を交わす。
ニナは、ゆっくりと息を吸った。
身の丈。
その言葉が、胸に残る。
自分の“丈”とは、どこまでなのだろう。
三大貴族侯爵令嬢。
王太子妃候補。
けれど、異国の血を引く平民娘。
(……私は、どこに立っているの?)
問いは、答えを持たぬまま、音にならず沈んでいく。
ニナは、ただ微笑みを保った。
誰にも悟られぬように、
その痛みを、胸の奥へと丁寧に押し戻しながら。
夜会の音楽は、変わらず華やかに流れていく。
次の瞬間、プリシアの視線が、ふと遠くへ流れる。
――ルイス。
彼を見つめる瞳には、恍惚が宿っていた。
初々しい憧れの色に包まれながら、その奥に潜む艶やかさは、隠しきれていない。
恋を知らぬ少女のようでいて、
同時に、選ばれる未来を夢見る女の眼差し。
その熱を、ニナは否応なく感じ取ってしまった。
視線を巡らせると、深碧色のドレスを纏ったアレクシアの姿が目に入った。
彼女はルイスと杯を交わし、慣れた距離で微笑み合っている。
その自然さに、ニナは胸の奥がかすかに軋むのを感じた。
――彼らには、私の知らない時間がある。
けれど同時に、彼女は自分を叱りながらも背を押してくれる人だと、思い出す。
平民であることを言い訳にするな、と。
自分の核を持て、と。
その声は厳しく、けれど確かに優しかった。
ただ今のニナには、その優しさに応える力さえ、静かに擦り切れてしまっていた。
ふと、ルイスの視線がこちらをとらえる。
喧噪のただなかで、ほんの一瞬、時が止まったように思えた。
彼は穏やかに微笑み、軽くグラスを掲げる。
遠くからでもわかる、その眼差しのぬくもり。
――けれど。
それは、王太子としての微笑みにも見えてしまう。
ニナは小さく会釈を返し、そっと視線を逸らした。
胸の奥に、言葉にならない痛みが広がっていく。
もう彼の隣に立てるのは、自分ではないのかもしれない。
ルイスは、その仕草に気づいたように、ほんのわずかに目を伏せた。
その寂しげな表情を、
候補者たちの影が交錯するこの夜会で、誰も見てはいなかった。
他にも、改革派の貴族たちの間にも、彼を求める令嬢は少なくない。
彼女たちは一見親しげに、優しく声をかけてくる。
けれどその眼差しは、ニナのすべてを値踏みするようだった。
――自分より賢く、華やかで、堂々とした女性たち。彼にふさわしい女性たちはたくさんいる――少なくともニナはそう信じ込んでいた。
祝福の裏で、影のように囁きがまとわりつく。
「王の后には分不相応」
ニナはただ笑顔を保ち、胸の奥でそのすべてを押しとどめていた。




