第48話 遠い未来 ーー 秋の王宮にて
秋の風が、王都セリオンの尖塔を渡ってゆく。
空は高く澄み、雲は薄絹のように細く流れ、遠い竜の翼を思わせる形をとっていた。
戦は終わり一年が過ぎた。
王都は平穏という新しい衣をまとっていた。
だが、かつての混乱の記憶は、石畳の割れ目や人々の表情に、薄い影となって眠っている。完全には消えない残り香のように。
王宮の庭では、木々が黄金と深紅の王冠を戴き、落葉が風に舞うたび、冷たい香りが空気に滲んだ。
噴水の水面に映る紅葉は、鮮やかだが同時に静かな揺らぎを宿している。
黒竜ユリア王女の消息はいまだ杳として知れず、レオニス王は王国中に探索を命じていたが、報告は空を切るばかりだった。
その間にも、第二王子ルイス・アヴェルシアは王太子としての座に向かう道を、休む間もなく駆け上がっていた。
新年の就任式を控え、政務も儀式も山積み。
――それでも彼が心を離せぬのは、ひとりの女性のこと。
かつて王女の侍女であったニナ・レイザルト。
本来なら主を失った身として王宮を去るべき立場だった。
けれども、周囲が驚く中、ルイスは彼女を手放さなかった。
彼は月の離れに彼女を留め、王の命という名目で厳しい監視下に置いた。
レオニス王としても黒竜の制御役として引き留めたい理由があった。
名目は「王太子妃候補としての教育」。だがそれは、ルイス自身の願い――彼女をもう危険に晒したくないという切実な想いであり、同時に他の誰にも触れさせたくないという激流の衝動でもあった。
ユリアが“黒竜シオン”だと知ったあの日から、ルイスの中の均衡は崩れ始めていた。
ニナが遠くへ行ってしまう気がした。自分の知らぬ世界に、誰かのもとへ。
それが理性を鈍らせ、彼を静かに追い詰めていたのだ。
侯爵令嬢とは言え、平民として長く生きてきたニナにとって、その試練は苛烈だった。
周囲は冷ややかな視線を隠さない。
だがニナは、学び続けた。ユリア不在の喪失を埋めるように。ここに留まることがルイスの為であり、“誰かを守る未来へ繋がる道”だと自分に言い聞かせ。
やがて洗練された淑女となり、社交界でもてはやされた。
しかし称賛は安堵よりも先に不穏を呼んだ。
彼女の人気は、ルイス自身の不安と、一部の貴族にとっては、王家と三大貴族の均衡を揺らす重心として警戒されていたからだ。
そして初夏以降、社交も禁じられた立場で世界は限りなく狭くなっていた。
それでも彼女は懸命に学び、微笑を絶やさなかった。
だが夜、静まり返った月の離れの部屋でひとりになると、胸の奥で疑問が芽を出す。
(私は……何のために、ここにいるのだろう)
胸の奥で、かすかな光がひとひら揺れた。
何かの誓いのように温かく、名も姿も持たぬまま、けれど懐かしく、彼女の魂の縁をそっと撫でるような光。
それはすぐに消えたが、彼女の背筋に一瞬だけ勇気を灯した。
ニナはそっと息を吸い、視線を上げた。
王妃という言葉に、実感はなかった。
平民として育ち、カイロス侯爵のもとで領地経営を学び、民の暮らしを見てきた日々が、まだ心に息づいている。
国を支えるというのは、玉座の傍らに座ることではなく、人々と共に働き、同じ土の呼吸をすることではないか。
そう思う自分を、時に彼女は責めた。
けれど今は違う。
消えたはずの光の余韻が、まだ胸の奥で微熱のように残っている。
***
ある日、病を癒しつつある第一王子テオドリクから、思いがけない密やかな茶会の誘いが直に届いた。
本来ならそのような誘いが彼女に届く前に、書簡はルイスの手で封殺されていた。
だが兄として、また一人の人間として、ルイスの過剰な庇護に心を痛めていた。
そして何より――やつれたニナの翳りをみかねたからだ。
秋の午後、紅葉の光が差し込む王宮の窓辺で、ニナは久しぶりに穏やかな笑みを浮かべていた。
テオドリクも柔らかく微笑み、すぐに政治と教育の話題へと移った。
久方ぶりに、心が解ける時間だった。
ニナが生き生きとする姿を見て、テオドリクの顔にも満足げな笑みが宿った。
「君は、本当にこの国を見ているんだね」
テオドリクの声は静かで、澄んでいた。
ニナは目を瞬かせ、胸が熱くなる。
それは久方ぶりに“存在を肯定された瞬間”だった。
だが、その穏やかさは、夜の訪れとともに脆く崩れる。
***
――夜が更け、月の離れは深い静寂に包まれていた。
紅葉が散り敷かれた中庭を渡る風が、窓越しに微かな音を立てる。
月光が白いカーテンを透かし、机の上の書簡を淡く照らしている。
その静寂を破るように、扉が叩かれた。
入室を許すより早く、ルイスが姿を見せた。
冷えた風をまとい、まっすぐにニナを見つめる。
「……兄上と、会ったそうだな」
低く抑えた声の奥に、明らかな怒りがあった。
ニナは息を呑む。
あの茶会のことを、もう知っているのか――。
「はい。お見舞いも兼ねて……。ただ……少し、教育のことをお話しして」
「教育のこと、だと?」
ルイスの眉がわずかに動く。
その陰に、言葉にできぬ不安が揺れていた。
テオドリク王子は、かつて王宮でも“微笑の貴公子”と呼ばれていた。
窓辺に立つだけで書物の影すら優雅に見せる、と侍女たちが囁いた王子。
その穏やかな人柄の裏には、どこか危うい魅力がある。
病弱でなければ、数多の貴婦人を惑わせていたかもしれない。
その性質は、常に愛人を抱えていた父レオニス王にもよく似ていた。
ゆえに、王太子の座へ向かう不安を積み上げた今のルイスには、その延長線が“奪取の未来図”に一瞬でも見えてしまった。
「……殿下は悪気はないと思います。ただ、少し話しただけです」
ニナは静かに続けた。
だがルイスは首を振り、視線を落とし、かすかに息を吐いた。
「ニナ。君は……もう政治や改革のことなど考えなくていい。
そんなものは、私やカイロス侯爵がやればいいんだ。
君はただ、王太子妃として、そしていずれ王妃として、国の“象徴”であってくれればいい。
民を導く言葉も、理想を掲げることも、今は君が背負うべきではない。」
思いもよらぬ言葉に、ニナは凍りついた。
以前は共に未来を語り、彼自身も尊重してくれていたはず。
なのに今、その瞳には別の色が宿っている。
理性と情のはざまで揺れる光――それは、愛ゆえの独占であり、恐れゆえの執着だった。
「……ルイス、私はただ……あなたと一緒に、この国を良くしたいだけで……」
かすかに震える声で告げた。
ルイスは目を伏せた。
返ってきたのは、優しくも決定的な拒絶。
「君は優しすぎる。だからこそ、争いや政治には触れてほしくない。
君が涙を流すような世界からは、私が守りたい。
君が苦しむくらいなら――すべて私が背負う。」
その声は穏やかで、けれど切実だった。
守りたい想いと、閉じ込めるほどの愛。
その両方が、ルイスの中で渦巻いていた。
「……ルイス?ありがとう……でも……」
返事の代わりに、彼は歩み寄り、彼女を抱きしめた。
腕は強く、震えていた。
熱を帯びた息が髪に触れ、囁きが耳をくすぐる。
「ニナ……」
――もう、危険な目に合わせたくない。
――誰にも君を近づけたくない。
ニナは抵抗しなかった。
愛されているとわかっている。けれど、その愛がふたりを縛っていることも。
互いの鼓動が重なり、部屋の灯が淡く揺れる。
(どうして……こんなに切ないの)
夜が更けるほど、言葉は消え、静寂だけが残る。
愛し合っているのに、遠い。
その矛盾が、秋の冷えた空気のように胸を刺した。
翌朝、陽光が差し込む部屋で、ニナは彼の寝顔を見つめていた。
指先でそっと、彼の髪をなぞる。
(ルイスを支えたい。あなたの言う通りかもしれない。守ってもらえて感謝してる……でも、私が見ている未来と、あなたの未来は違うの……?)
瞳に光と影が揺れた。
窓の外では秋風が木々を揺らしている。
やがてルイスが目を覚まし、微笑んだ。
だがその笑みは、ニナへ向けられたものではなく、どこか遠いところを見ているような気がした。
政務に追われる日々の中、彼の瞳は次第に、彼女自身ではなく、どこか違う未来を見ているようにニナには感じられた。
それでもニナは柔らかく微笑み返す。
彼女は信じた。
きっと今、彼は孤独と焦燥の中にいるだけ。
愛があればまた同じ夢を見られると。
――けれどその信頼は、冬とともに、脆くほどけてゆくのだった。




