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第47話 千年の光 ー名を持たぬ誓い

初夏の森は、光を溜め込む器のようだった。

湖畔へ枝を伸ばす古い菩提樹は、幹の表皮に千年分の風紋を刻んでいる。

葉が揺れるたび、光と影の境界は溶け、輪郭を曖昧にした。


シオンはその樹の下で横たわっていた。

外套を枕にした姿は無防備だった。

黒髪は濡れた墨のように深く、湖面の反射光を受けると青の残響を帯びてにじむ。

長い睫毛の影は頬へ淡く落ち、眠りの横顔はこの世のものより少し遠い。


「……セルジュ」


シオンは薄く瞼を開けた。


「今のは……ニナ?」


独り言は風へ散った。

夢の輪郭は思い出せない。紫の瞳は揺れていた。だが胸の奥に、まだ温かい光の残滓が沈んでいた。


※※※


畔の朝は淡く、水面の光は輪郭をもたずに揺れていた。

まるで夢の中に差し込む夜明けのように、景色は静かに呼吸している。

湖のほとりには、石碑のような石がある。千年前のアヴェルシア古語で「竜と人が誓いし湖」と刻まれていた。


桟橋には黒髪の若い男女。

女性は青年の袖を控えめにつまみ、少し背伸びをして彼を見上げた。


「セルジュ、あのね」


セルジュと呼ばれた男は振り向いた。

黒髪は深く、陽光を受けると青の輪郭が滲む。

長い睫毛が伏せられるたび、湖光を拾った影が頬へ溶け、紫の瞳は深い星雲のように揺れていた。

けれど名を呼んだ女を見つめた時は、その奥で優しい光が煌めいていた。


「どうした?サイア」


サイアと呼ばれた女は胸の前で両手をそろえた。

鼓動がいつもより速いのに、声は穏やかだった。喜びを壊さぬように包んでいるみたいに。


「子が、できたみたいなの」


言葉が空気へ溶けた瞬間、風がそっと吹いた。

水面が震え、光が跳ね、まるで湖が返事をしたようだった。


「僕たちの?」


「うん。わたしたちの子」


サイアは笑った。

湖光よりもやわらかな輝きで。


セルジュはまばたきをした。

そして息を吸い、ゆっくりと笑った。声は出ないのに、空気を祝福の拍動に変えるようだった。


「サイア」


名前を呼ぶだけで、その響きは抱擁のようだった。

彼はそっと彼女の肩を抱き寄せ、額を触れ合わせた。


「ありがとう。こんな幸福を、僕は知らなかった」


「私も。だから、ふたりで知っていくのね」


「竜と人の血を引く子か」


「最強で最愛のハイブリッドね」


セルジュは困ったように笑い、けれど嬉しさを隠し切れず口角が上がったままだった。


「未来が、ちゃんと僕たちの手の中にあるんだな」


サイアは彼の胸に手を添えた。


「うん。ここにある。今日から始まるの。ううん、あなたと出会った時から始まっていた」


「…サイア」


セルジュは彼女の手へ自分の手を重ねた。

その愛は言葉より先に、脈で交わされていた。



森は昼の光をふんわり溜め込んでいて、葉が揺れるたび影が溶ける。

そこでセルジュは木を削っていた。

未来の小さな手が触れるものを作るために。


ひと月前、サイアの妊娠を知った日から、彼の時間は変わった。

人間の父親が子に残すものは、力でも財でもなく触れたくなる記憶だと思ったからだ。



湖畔から少し入ったこの森には、細工に適した木が多い。

香りが柔らかく、削ると小さな光沢を宿す木。

それを選ぶ時のセルジュの表情はいつも真剣で、愛情は作業の背中から漏れ出ていた。


やがて生まれる子がこれに触れる未来を想うだけで、セルジュの胸は満ち、孤独の空洞は跡形もなく塞がっていた。


だがその手は途中で止まった。

木片ではなく、血が落ちたからだ。



「セルジュ!」


駆けつけたサイアは地面に膝をついた。

彼の外套に染み込む血は熱かった。命はまだここにあると告げるように。


「いや…どうして…どうしてこんなことに…!」


セルジュの瞳は薄く開いていた。

彼女を探すためだけに残された視界。


彼は微かな力で彼女の手を掴んだ。


「サイア」


「喋らないで、お願い、無理はしないで…!」


「大丈夫だ。これでまだ終わりじゃない」


彼はゆっくり呼吸を整えた。

掠れるのではなく、まるで魂から届くような声音。


「君に出会って、共に旅をして、笑って、支え合って…僕はずっと幸せだった。この上なく。

そのすべてが、この子へ続いている」


サイアは唇を震わせた。


「そんなの、そんなのって…」


「愛は消えない。君が、この子がいるかぎり」


「人になれて良かった。君のおかげだ」


「ありがとう、サイア…」


「愛してる…」


「セルジュ。私もよ」


サイアは涙を落とした。

それは喪失の水だけではない。託された未来の水だった。



そこへ銀髪の男が駆け込んだ。


乱れた呼吸のまま、けれど声は震えていた。


「セルジュ様!なぜ…

国を救い、民に愛され、王より信頼された…誰より未来を照らした方だったのに」


怒りは刃より鋭く、悲嘆は水底のように冷えていた。



森の奥。銀髪の男は刃を抜き、倒れた暗殺者を見下ろしていた。

暗殺者は笑った。


「竜と東方の娘の子など…世界を歪める種だ」


「歪める?違う。希望だ。あなたには分からなかっただけだ」


暗殺者は掠れた声で続けた。


「陛下は心配されておる。民から王より慕われ、信頼されすぎた彼らを」


男は低く答えた。


「彼らに罪はない。光だ」


暗殺者は湖へ向けて倒れ込んだ。

水面は跳ねなかった。ただ静かに受け止めた。



森を抜け、サイアのもとへ戻った男は跪いた。


「サイア様。あなたも、御子も。……私が守ります」


サイアは振り向いた。

光を失ってもなお美しい瞳で。


彼女はそっと腹部へ手を添えた。


「ありがとう…でもね…ずっとセルジュが守ってくれる気がするの。生まれ変わっても」


声は湖へ落ち、千年の底へ沈む。

その言葉は波紋にならず、時そのものに溶けたようだった。


※※※


「……シオン?」


ニナは涙をこぼしながら目を開けた。

頬の温度はまだ湖畔の朝を覚えていた。

なぜかこの上なく大切なものに触れていたような感覚だった。


「わたし……今、誰と?」

問いは月の離れの宙へ逃げ、答えは返らない。


続く言葉は生まれなかった。

夢の記憶はほどけて消える。

けれど胸の奥の光はまだ微かに鼓動している。


ニナは指先で頬をなぞり、濡れた跡に触れた。

 

この涙は決して忘れてはいけない気がした。

この消えない光は、愛おしく悲しく、懐かしかった。

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