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第46話 竜の春 ーー 自由と心

春。ニナが社交界でもてはやされていた頃。


黒竜ユリア――否。今は “ノア”と仮初の名を名乗る18歳の少年シオンは、レイザルト領の森深くにいた。


王宮の高い空から切り離された生活は、驚くほど地に足がついている。


髪は魔法で変えた鳶色。紫の瞳の色は魔法で変えるのは難しく、青紫色になっていた。

賞金稼ぎとして日々銀貨を稼ぐ彼を、竜と疑う者はまだいない。


彼の目的はただ一つ――黒竜の力を制御すること。

夜明けと共に森へ入り、夕闇の前に洞窟や古い遺跡で修行を重ねる。暴れ回る力を抑え込み、己の血に飲まれぬよう鍛え続ける日々。

移動の理由もまた同じ。各地を巡る竜捜索の影が濃くなれば、風のように町を変え、痕跡を消してまた森へ帰る。



夜明けの直後。森奥の滝壺のほとり。

春の光はまだ淡く、風は冷たさを残している。


シオンは静かに片膝をつき、水面へ掌をかざした。

呼吸は一定。だが血の奥で黒竜の魔力が脈打つたび、紫電のような揺らぎが指先に滲む。


「暴れる力を止めるんじゃない。流れを変えるんだ」

自分に言い聞かせる声は低く、研ぎ澄まれていた。


竜の血が逆巻くと同時、水面がびり、と震えた。

小さな波紋はやがて螺旋となり、黒い光を帯びた水柱が一瞬だけ立ち上がる。


だが シオンは焦らない。ただ導く。


「沈め」


その一語は命令ではなく、制御のための調律だった。

水柱はほどけるように崩れ、再び鏡の静寂へ戻る。


(力は抑え込める。だけど――)


胸の内の水源は、まだ名前のない揺れを残していた。

彼は濡れた掌を見つめ、春の匂いを吸い込んで、ふと笑った。



修行から戻った午後。食堂の裏庭。


食堂の裏庭で小さな影たちがわらわらと群れていた。木剣を振るう子、どんぐりを集める子、スープ鍋を覗く子。


シオンが姿を見せた瞬間、空気の層が一枚めくれた。湿った前髪の下、整った輪郭は容赦なく光を掴んでいる。

魔法で変えた鳶色の髪でさえ、濡れれば琥珀のような艶を帯び、泥も埃も、彼の中性的な美貌の奥から顔を覗かせた男らしさを、否応なく引き出していた。


「ノア……かっこいい……」


「だろ?」


子供の誰かの呟きに返したシオンの即答はあまりにも迷いがない。

それが合図のように周囲に笑いがぱっと広がった。


細身ながら鍛えられた筋肉はしなやかに均衡し、背の長剣が描くシルエットは野生的なハンターそのもの。

しかしその立ち姿には、かつて騎士として身に纏っていた優雅さがまだ骨格のように残り、粗野と洗練の境界で揺れる色香が漂っていた。

白磁のような鎖骨、風を裂く背中、彼は少年から青年へ成長していた。


「ノアーー!!」


赤毛の少女が、ぱっと手を振った。

年は16〜17ほど。シオンより1、2歳下に見える快活な美少女――ジェシカだ。


赤毛は太陽の核のようなオレンジ色。

跳ねる髪先は風にほどけて舞い、健康的な艶が弾ける。


瞳は蜜柑色。笑うたび光を噛み砕く。

頬は春の果実のように色づき、動くたび周囲の空気まで暖色に染める存在感。


誰より生きていて、その場の誰より春の光そのものだった。


シオンの視線が、一瞬だけ揺れた。

滝壺の水面のような一拍のぶれ。

そこに浮かんだのは少女ではなく、暗い髪と小さな花みたいな笑顔だった。


「今日もおやつちょうだい!」


「俺は菓子配り係じゃないって!」


言い合いながらも、クッキーを取り出す指は迷いがない。

子供たちは歓声、ジェシカは得意げに配って回る。


「ジェシカ!」「ノア!」「ノア!」「ジェシカ!」


名前が渦を巻き、庭は笑いの波。

シオンは両手を上げて降参。


「もー! ノアだよ、俺は! 覚えてってば!」


その困り笑いは柔らかく、怒気などない。

ジェシカはそんな彼の腕に自然に絡みつき、距離をきゅっと縮める。


「ありがとう。……大好き、ノア」


直球の好意に、シオンは一瞬だけ目を丸くした。けれどその瞳は、嬉しさと同時にほんの僅かな影を宿して揺れた。


――ユリア様、大好き。

ニナの鈴のような声が、陽だまりの記憶と共に胸を満たす。

どんな時も愛で包んでくれた優しい好意。だが決してシオンとしては、向けられない“恋の直球”。


目の前の少女もまぶしい。温かい。けれど胸の奥が少しだけ痛む。


(この子を好きになれたら…でも)


ニナは恋人じゃない。

ジェシカを好きになることに、遠慮も倫理も要らない。


だがその想像は、胸の奥でそっと形を失う。

彼の心には、すでに誰かの居場所があるからだ。


そこにあるのは「過去」ではなく、今も続く想い。

思い出という名前すら足りない。理由も説明もできないのに、離れない。消えない。揺らがない。

ただ一人の存在が、静かに、絶対的に、そこにある。


それが ニナ だった。



少女の視線は、シオンが腕に挟んだ花束へ向いていた。


淡いピンクと白の小花。


可憐で、優しくて、穏やかで、面白くて可愛い――触れれば壊れそうなほど柔らかな花々。


(……ニナに似てる)


町の花売りの屋台で見た瞬間、心臓を掴まれたようだった。


一昨年の秋の収穫祭。王女ではなく“シオン”としての初デート。

背伸びして選んだ淡い花。

照れた横顔、触れた小さな手。光に包まれた笑顔。

人生で一番満たされた時間。大切な思い出。



「ジェシカに?」


「ヒューー!」「恋人じゃん!」「ジェシカよかったな!」


子供たちが囃し、ジェシカは頬を赤くした。

からかい半分の歓声の中で、彼女はわざとらしく胸を張り、照れ隠しの笑みを咲かせる。


「べ、別に恋人ってわけじゃないけど? でも花くらいはね!」


その声は明るく跳ねているのに、視線はシオンの指の動きへ釘付けだった。


シオンは笑った。言葉にせず、そっと花を差し出す。


「君に」


ジェシカは嬉しさを隠さず、花を高く掲げた。


「やっぱり! ありがとう、嬉しい!」


「ジェシカは太陽みたいだな」

言葉は優しい。

だが瞳はどこか遠くを見ていた。


彼女は花を抱えたまま笑っていた。

いつもと変わらぬ快活な笑顔なのに、耳の先まで赤く染まっている。


「よ、よく言われるんだ!太陽みたいって。ありがと!」


照れと誇らしさが混じる眩しいほどの美しい笑顔だった。


「ちょっと眩し過ぎて日焼けしそうだけどな」

シオンは片目を細め、軽くウィンクした。


「もう!」


花束でシオンの胸元を小さくぺしりと叩いた。

そんな仕草でさえ、弾ける春光みたいに軽やかだ。


けれどその直後。

ジェシカの視線がふっと、シオンの瞳の奥へ潜ろうとする。


「……でも」


シオンの眉がわずかに上がる。

声だけ少し柔らかく、少しだけ低く。


「嬉しいのは本当」


一瞬の静けさ。

裏庭の風が葉を揺らし、陽光の粒をぱらりと散らした。


「良かった」

シオンは笑った。今度は、ちゃんと彼女を見て。


ジェシカも笑った。

いつも通りに戻った声で、両手を腰に当てて宣言する。


「よし! じゃあクッキー追加ね!」


「だから菓子係じゃないって!」


ふたりの笑い声が、森の奥へまっすぐ伸びていった。



夜。

食堂から上階の宿へ向かおうとしたシオンの袖を、誰かが指先でつまんだ。ジェシカだ。

彼女はシオンが泊まっている宿にある食堂の看板娘だった。


「ねえノア。……あとで部屋に行ってもいい?」


声色は少しだけ大人びていて、それでいて隠しきれない期待で溢れていた。


シオンはぱちりと瞬き、暗くならないように、穏やかに言った。


「ごめん。俺の部屋には誰も入れないんだ」


ジェシカの瞳がゆらりと揺れる。


「え……どうして?」


「守りたいものがあるから」


その声音は、彼女へ向けられているのに、視線は遠い月の光を掬っているかのようだった。


ジェシカは一度まつ毛を伏せる。だが短い沈黙の後、彼女はすぐ顔を上げ、いつもの強さと速さで笑った。


「そっか。ちょっと意味分からないけど……いいよ。とにかく明日はスープおかわりね!」


「任せろ」


ノア――シオンは吹き出しそうになり、ふたりで同じように笑った。


(ありがとう。ジェシカ)



後日、噂は広まっていた。


「ジェシカの誘い断るとか正気か?」


「恋人忘れられねぇのか?」


シオンが首から下げた紐には、ニナが秋の収穫祭で買ったユリアとお揃いの指輪が揺れていた。


シオンは笑った。


「忘れられないんじゃない」


「じゃあ何だよ」


「離れないだけ。俺のほうがね」


ランプの火がゆらりと揺れ、春の夜風が森へ抜けてゆく。

その風は問いをさらい、代わりにひとつの答えだけを運んでいた。

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