第45話 愛の檻
夜明けの余韻が、まだ薄青い回廊に漂っていた。
王宮の離れの扉が押し開かれたのは、朝霧を裂いた早馬の報せよりも早い。
ルイスの外套には、長い疾走の痕跡のように細かな霧の粒が宿っている。側近たちの制止も聞かず、ただ一言「すぐ戻る」と告げて飛び出したのだと、後にニナは知ることになる。
扉の前で立ち止まったままの彼を見た瞬間、ニナの心臓は跳ねた。
言葉より先に身体が動き、彼のもとへ駆け寄る。
「ルイス、私のせいで……ご迷惑を」
言い切る前に、ルイスの腕が彼女を包んだ。
力は強く、だが触れ方は精密で優しい。割れやすい宝玉を胸に秘めるような所作だった。
「君はもう十分だ」
低く落ちる声は静かなのに、芯の強さを帯びていた。
「試される必要も、利用される必要もない。君が傷つく理由など、どこにもない」
肩に置かれた手の温度は、確かめるようにそっと布越しを辿る。
距離は穏やかなはずなのに、空気は密度を増し、自然と逃げ場を奪っていく。
ニナはその胸へ額を預けた。
安堵が身体の輪郭を満たし、「守られている」という感覚だけが先に溢れる。
――この人のそばにいれば、大丈夫。
そう、言い聞かせていた。
だけど、なにが大丈夫?
微かな疑問が頭を過った。けれどニナは曖昧なままそっと瞼を伏せてやり過ごした。
「しばらく社交の場へ出るな。最低限でいい」
再び告げられた言葉は命令ではなく、切実な願いに近い。
「君は……あまりにも無防備で、あまりにも人を惹きつける」
その声には、苛立ちではなく“失うかもしれない未来への恐れ”が宿っていた。
それは正論だった。
けれど正論は、ときに檻の格子の形をしている。
ニナは目を伏せたまま、小さく息を吸う。
「……はい。でも、ユリア様が戻られたら――いつかまた、福祉や教育の事業に……関わりたくて」
その名を聞いた瞬間、ルイスの眉がわずかに動いた。
ユリア。黒竜の化身。前王の血を引く真実の王女。しかし同時にニナに恋するシオンなのだ――かつては妹のように、今は複雑な存在として胸の底へ沈めている名。
「いつか、携わる日も来るだろう」
ルイスは目線を少しだけ伏せ、言葉を選ぶように続けた。
「ただ今は……君が安全でいることが最優先だ」
ニナはその言葉を噛みしめながら、胸の奥で小さな火を灯した。
「はい…いつかまた……。今は勉強を頑張ります」
それは妥協ではなく、未来へ向けた決意の宣誓だった。
ルイスはそっと彼女の指を取る。
絡めるのではなく重ねるだけの接触。だがその重なりは確かで、二人だけが理解できる愛の署名のようだった。
そう思ったはずなのに、胸の奥で微かな違和感があった。
外の世界が、音もなく後ろへ流れていくような、不思議な感覚。
檻は怖い。
けれど、その奥に未来があるのなら――自分の足で、歩き続けられる。そう信じていた。
※※※
夜明けの光はまだ完全な熱を帯びず、磨き上げられた大理石の床に白い反射だけを刻んでいた。
離れの庭を抜け、ニナと束の間の再会を果たしたばかりのルイスは、外套も靴も旅路のまま、回廊を足早に戻っていた。
抱きしめた腕の余韻がまだ身体に残っている。
ニナの無事を己の目で確かめ、ニナへ社交の禁止を伝えた今、目的は達せられた。
彼はすぐ王都を出るつもりだった。
その背を、王レオニスの低い声が射抜く。
「ルイス。少し寄れ」
ルイスは歩を止め、振り返り礼を取った。
「陛下、私はこれより――」
「分かっている。だが話がある。中へ」
王は側近たちを視線だけで下がらせ、執務室の扉を示した。
⸻
王・執務室
王は書類を指先で押さえながら、ゆっくり告げた。
「婚約者候補の名が上がっている」
王が口にしたのは、王都の政治そのものを背負う二つの名。
「プリシア・オルドレイ公爵令嬢」
「ミオラ・スミト王女 スミト国の第二王女だ」
ルイスの瞳は、驚くほど静かに凍りついた。
「どちらも認めません」
間髪も逡巡もない。ただ決定だけがある。
王は眉を上げる。だが怒りは見せない。
「理由を聞こう」
「プリシア嬢は保守派名門、グラシエラ家と懇意。
そして――ニナを誘惑したダリウスの妹。彼女を迎えれば、あの子は再び政治の道具になります」
王の指が止まる。
ルイスの声は抑揚も高低もないのに、言葉の重さだけで部屋の空気を押し下げた。
「もう一人はスミト国の王女。北東の国。安全保障上、極めて重要だ」
「承知しています。ですが、ニナを側室だった母と同じ立場に置くつもりはありません」
その言葉は反抗や恋愛の我儘にも聞こえる。だがその奥底には、血筋の悲劇を終わらせたいという意思が確かにあった。
王は椅子の背に静かに重心を預ける。
「確かにニナ・レイザルト嬢は、平民の支持を束ねる器となり得るだろう。
だが支持とは時に王冠より重くなる。
王太子妃が改革や政治の主語となれば、保守派は“竜の再来”より騒ぎ立てる。
そして力を持ちすぎた妃は、国益ではなく“妃益”で語られるようになる」
王の指先が書類の縁をなぞる。声は低く、しかし冷たさよりも警戒の鋭度が勝っていた。
「今、彼女が社交界で注目の的だとしても、政治に関われば保守派は黙っておらぬ。
お前が守りたい未来ごと、彼女は旗印として担ぎ上げられる。
それは“守る”ではなく“争いの中心に置く”ということだ」
ルイスは言葉を飲み込んだ。反論はない。だが瞳の底には、王の論理とは別の熱がくすぶっている。
「私は政略結婚だった。国は愛では回せぬ」
ルイスの喉がわずかに動く。だが声は驚くほど静かだった。
「――国のためにもニナが最良です」
その言葉は、一見すればただの情の吐露だ。
確かに、王太子という重圧の中で、ルイスはニナを“母のような唯一の存在”として必要としていた。
だが、平民の血を王妃という主語に置くことで、国に新しい風を招き入れたい。閉ざされた価値観を塗り替え、王都に改革の季節を巡らせたい。それこそが彼の描く未来だった。
母の立場をなぞらせぬと誓ったのも、愛と改革の意思が同じ方向を向いていたからに過ぎない。少なくとも、ルイスはこの時はそう信じていた。
王は息を一つ落とし、ただ言った。
「国を一番に考えろ。それだけだ。お前なら分かるだろう」
叱責でも理解でもない。王の境界線だった。
ルイスは再び礼を取る。
「御意、陛下」
嘘ではない。
ただ王と王子で、頂点に置く人間が違うだけだった。
⸻
扉が閉まった。王は何も言わず、ルイスもまた何も言わない。
ニナに知らせるつもりは無い。
彼女が信じる未来に、今はまだ波紋を立てたくなかった。
だが同時に胸の奥で王の言葉が反芻される。
(王として、何が正しい?)
ニナを愛し続ける覚悟は、すでに血液より濃く決めている。
だが“王としての最善”を選んだと言い切れる日は、まだ来ていない。
歩き出した彼の指先は、先ほどニナの指に触れた温度を忘れていない。
王都の朝は晴れていた。
けれど空は、ルイスにだけほんのりと翳りを見せる。
檻の影はまだ薄い。
だが光の角度は、もう変わりはじめている。




