第44話 花の役、檻の輪郭
6月。
春はすでに王都の街路から姿を消し、初夏の空気は薔薇と菩提樹の香りに主役を譲っていた。
陽光は柔らかな黄金から白い輝度へ変わり、石畳は昼の熱を蓄えて夜まで温度を残す。
だが貴族たちの初夏はまだ――戦の後の虚ろを埋めるように、名門たちの社交圏には微妙な熱が薄膜のように漂っていた。
事件は王宮ではなく、保守派の名門サロン《銀影の間》で起きた。
白亜の円柱、燻された銀の燭台、窓に張られた淡青のガラス。
ここは「政治」と「品格」を語るための社交の牙城。恋の炎など本来、立ち入る余地のない場所だった。
ニナを誘い出したのは、オルドレイ公爵家の令息――ダリウス・オルドレイ。
グラシエラ家に次ぐ保守派の中心人物であり、社交界デビューを控えた令嬢の兄。
青みを孕んだダークアッシュの髪と、温度を欠いた煙青の瞳は、恋よりも統率を語る色。
前々王の時代から続く王家との縁と、派閥の血統と保守思想を濃く受け継いだ、若き公爵家の輪郭そのもののような令息だった。
彼は微笑む。柔らかく、だが計算された角度で。
「ニナ嬢。あなたのように民を想う方なら――私の話にも耳を貸してくださいますよね?」
ニナは頷いた。迷いなく、朝露の残る初夏の花弁のように澄んだ所作で。
「はい。ぜひお聞かせください。私…皆さまの考えを、学びたいのです」
「なら――こちらへ。誰にも邪魔されぬ場所で」
導かれた先は、奥の談話室。人払いの済んだ沈黙の部屋。
扉が閉まる音は静かだった。だがその余韻は、逃げ道を封じる鍵が落ちる響きに似ていた。
振り向けば、距離は腕一本分。
「ニナ嬢。あなたは――誰にでも優しすぎる」
「え…?」
「その優しさは“罪”です。あなた自身をすり減らす毒だ。
私の隣にいれば――あなたは傷つかずに済む」
声音は甘い。だがその奥の真意は、蜜ではなく鳥籠の鉄格子のように冷たい。
ニナは気づいた。初めて。
政治の誘導が、恋の牙へ変わった瞬間を。
「私は…ルイス殿下の――」
「知っている。だが王家は常に“より良き妃”を選ぶもの。
寵愛は――永遠ではない」
否定したいのに、言葉は喉で絡まる。
理解していたはずの現実が刃となり、自己の中心を突き揺らした。
(永遠じゃない…分かっていたはずなのに――どうして、こんなに苦しいの)
動揺の隙を、彼は逃さない。
顎へ触れた指は絹より柔らかく、けれど氷の冷度。
「やめて…」
掠れた声は拒絶と、救いを求める合図だった。
「なにをしている」
割り込んだのは、アレクシア・ラディアンス。
翡翠の瞳は静かな怒りで燃えていた。
彼女は戦場よりも苛烈な貴族社会を知る女騎士。ニナの表情を見ただけで全てを察した。
「無垢な心を政治と恋の駒にするなど――騎士道にも劣る行い。
ここは恋愛ごっこをする場所ではないわ」
「議論の延長ですよ。アレクシア嬢」
ダリウスは眉ひとつ動かさない。邪魔が入った苛立ちは瞳の底で燻るだけ。
それすら演出の一部といわんばかりの余裕を纏い、優雅に返す。
「延長? いいえ。それは“逸脱”よ。
あなたの目は獲物を狙う目。ニナは駒じゃない」
勝敗は言葉ではなく、空気そのものが決した。
初夏の風が止まる。
「ニナ、行くわよ」
アレクシアが手を引く。強く、だが乱暴ではない。怒りはある。だがこれは救出だった。
歩きながら彼女は言う。
「ニナ。あなた――殿下がいるのに、なぜこの手の男の言葉を信じるの?」
ニナは俯く。羞恥と反省。
「…まさかと…いろいろな考えを、知りたくて…」
「知ることと、利用されることは違う!」
その声は回廊に渦を巻き、燭火を揺らした。
だがすぐに彼女は息を整え、火ではなく灯守の温度で続けた。
「あなたは確かに洗練された。今や誰もが欲しがる花。
でもね――侍女として自分の足で立っていた頃のあなたの方が、ずっと強くて誇り高かった」
「アレクシア様…」
「誰かの愛に頼るのはいい。けれど“核”まで預けるな。
自分で自分の中心を作りなさい。でなければ――あなたは檻にすら気づけなくなる」
その言葉は痛みとなって刺さる。
否定もしたかった。だが、すべきではなかった。
これは受け止めるべき言葉、自分に必要な言葉だと分かったのだ。
(私は…ルイスのためと言って、自分を見失っていた?)
出口でアレクシアは止まり、振り向いた。
「あとで泣くなら今泣きなさい。
あなたは“ただの花”じゃない。――誇りを持つ花よ」
「はい…。ありがとう…アレクシア様」
(なんて心の優しい方…。本当に私は何をしているの…)
ニナは涙を落とさない。
ただ視線だけを強く返した。瞳は深く輝いた。
アレクシアは無言で頷いた。
⸻
サロンはその後、解体された。
原因はニナではない。だが噂は止まらない。
「密室で迫ったのがオルドレイ家の令息だと?」
「いや、誘惑されたのか?」
「改革の象徴は…やはり危うい薔薇だ」
噂はニナを食い潰す毒霧のように纏わりついた。
彼女は自分の軽率さを呪う。
思い知る。
社交界では恋と噂に消費され、政治の席では血統で値踏みされ、ただ手札にされる。
より良い国を望んでいるのに、求められているのは思想や意見ではなく利用価値だけ。
ルイスのためだと耐えていた。ユリア不在の間の使命として。
だが――ここは自分の居場所ではないのでは。
ユリアもシオンもいない。
その孤独を照らすのは、ただひとり。
いつの間にかルイスの愛だけが、彼女の心を繋ぎ止める鎖であり、唯一の居場所になっていた。
⸻
王都を離れていたルイスのもとへ届く報せ。噂ではなく、事実として。
翌朝、早馬の蹄が朝霧を裂いた。
彼の初夏はまだ荒れる。
だが今度の嵐は歌でも恋でもなく――
愛を理由に檻を作る決意の嵐だった。




