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第43話 社交界に咲く花

春を告げる風が、王都セリオンの空に澄んだ余韻を運んでいた。


戦は国境で食い止められた。犠牲は大きかったものの、王都は焦土を免れ、巡る季節とともに徐々に平和の灯を取り戻しつつある。


――今宵、王宮主催としては戦後初の大夜会《春華の宴》が開かれようとしていた。


すでに一部の貴族たちは、失ったものを取り戻すかのように秘密裏の夜会を重ね、欲望の再点火を競い合っていた。だが、王宮の名のもと派閥を越えて人々が集う宴は、今宵が初めてとなる。


百の燭台に火が揺れ、天井に刻まれた銀竜紋は春の鼓動のように脈動する光を宿す。囁きは絹の波、宝飾は星、音楽はまだ鳴らぬというのに、空気そのものが旋律を孕んでいた。


だが、この夜会は純粋な祝祭ではない。


血統の誇示、富の競い合い、名声の奪い合い、そして恋の駆け引き。絹と宝飾で覆われた、もうひとつの戦場――華やぎの裏で火花が散る、社交界の舞台だった。



開幕を飾ったのは、甘く軽やかな歌声だった。


その声音は、春の夜気に溶け込む蜜酒のように広がり、人々の心を柔らかく絡め取っていく。


歌い手はエデン・リファール伯爵子息。

王国随一の人気を誇る青年歌手にして、恋と自由を愛する鳥。くすみを帯びた亜麻色の髪は若鳥の羽のように風と戯れる。その瞳は春告鳥にふさわしい鶯色――微笑は甘くどこか悪戯で、声は花蜜のように濃密で優しい。誰の檻にも収まらぬ華やかさと危うさを持つ青年だった。


一昨年のニナの社交界デビューの夜。月光の東屋で、彼女を密かに「黒の乙女」と詠ったのもこの男だ。


だが今、彼の歌は詩ではなく恋そのものとなって人々の胸を震わせ、空気を熱で満たしていた。



そして今宵、もうひとり話題の中心にいたのは――


ニナ・レイザルト侯爵令嬢。

かつて侍女として王宮に仕えていた少女は、今や王太子妃候補としてその名を広く知られている。


王太子妃候補としての厳しい教育は、彼女を作り変えたのではない。眠っていた本質を引き出しただけだった。


艶やかな黒髪はゆるやかな波となって夜光を吸い、白磁の肌は春の花弁のように薄紅を宿す。瞳は黒真珠の静かな輝き――無垢と気品、そして本人は自覚していない可憐さと妖艶さが溶け合い、見る者の視線を奪っていた。


言葉は穏やかで洗練され、教養と知性の香りを帯びる。微笑には慈愛が滲み、対話するだけで周囲の緊張を解きほぐす力があった。社交界ではその穏やかさと柔らかな理性、そして公平な心が称賛され、求められるのは容姿だけではなく、あたかも彼女自身の存在が一つの理想像のように思われていた。


魔力はない。だが存在そのものが魔法より鮮烈で、どこか神話めいた神秘を宿していた。


王都の夜会やサロンではすでに、彼女の名がひとり歩きしていた。

貴族たちの視線は途切れることなく彼女を追った。小声で囁き合い、肩越しに控えめな敬意を示す者、遠巻きに熱を帯びた視線を送る者。彼女が通る空間は花の軌跡のように清らかに光った。


「ルイス殿下が手放さない令嬢」

「改革派の象徴にして、誰にでも公平な花」

「黒竜すら制す聖なる乙女」


囁きは賞賛に満ち、空気は甘く澄んでいた。もちろん平民の血、東方商人の娘と蔑む声もまだ多く、消えない。その輝きの端には、ひそやかな嫉妬や蔑みも交じっていた。


だがニナを求める声は大きく、彼女自身の輪郭を曖昧にしていった。


求められているのは“ニナ自身”ではなく、あくまで周囲が描いた“ニナという物語”。


その重さに、ニナはひそかに疲れていた。


それでも彼女は微笑を手放さない。

湖面へ落ちた花弁のような、静かで清らかな笑みをたたえ、ただ春風の中心に立っていた。



歌い終えたエデンは、ルイスが席を外した一瞬を逃さず動いた。

観客を酔わせた鳥は、次の瞬間ただ一輪の花を奪いにいく。


ニナの前で跪き、手の甲へそっと口づけを落とす。触れただけのはずなのに、甘い余韻だけが残る。


 その刹那、ニナの脳裏をよぎったのは――戦前夜、真摯な瞳で同じように手へ口づけを落とし、無事と幸せを祈ってくれたあの人の姿。

 あの時も胸は苦しかった。だが不快さは皆無で、心の深部へ触れた光のような大切な記憶になっていた。


(――シオン!)


瞳が僅かに潤んだ。

あの優しい明るい笑顔は今どこに?ただ無事を願うしかなかった。


光が胸を満たしたのは一拍だけ。

今の現実が、すぐに彼女の心へ影を落とす。


エデンへ向けて溢れたのは応えられぬ申し訳なさだけではない。心が一歩退いてしまうような、確かな不快の棘。


 きっと彼の熱は歌のためのもの、と理解しているのに、距離を詰められた瞬間、身体が拒絶を覚えてしまう――その事実そのものが、ニナ自身を責め立てた。


 それでも彼は微笑み、囁いた。


「ニナ嬢――あなたは春そのものだ。私の歌があなたへ届いたなら、それだけで私は報われる。私の愛しい春」


囁きは軽やかで甘い。告白は風より柔らかい。だが瞳の奥は、獲物を逃さぬ熱を帯びていた。


周囲が息を呑み、噂は瞬く間に波となって広がった。


「リファール伯の鳥まで虜にしたのか」


「ルイス殿下だけでは足りぬと?」


視線と言葉の洪水に、ニナは頬を燃やし、声も出せず固まった。



その瞬間、流れ込んだのは――氷の気配だった。


湖底のように冷えた視線と、波より低く落ち着いた声。


「エデン伯爵子息。夜会の主役は歌だろう?――私の大切な人に触れるのは、そこまでだ」


振り向いたのは、ルイス王太子内定者。

銀髪は淡く光り、瞳は嵐の前の氷河湖の蒼。

その立ち姿は、夜会の絢爛すら脇役に変えるほど気高く、冷ややかな美しい光を纏っていた。


エデンは華やかな笑みを貼り直す。だがその奥で、声は震えるほど真剣だった。


「ですが殿下――どんな炎よりも触れたくなる旋律を、彼女は持っているのです。歌うたび、奪わねば終われぬほどに」


「譲る余地など無い」


ルイスはニナの腰へそっと手を添え、エスコートを奪い返した。触れ方は優しく、だが奪い返す仕草は誰より甘く強引だった。


「ニナ、行くぞ」


手の温度は、逃げ道を塞ぐように腰で存在を主張しているのに、触れ方も声音もあくまで優雅で甘い。

拒めば壊れてしまいそうな強さを秘めた独占だった。


ニナはびくりと肩を揺らした。

だがその震えは恐れではない。

身体は先に答えを出してしまう。


――ニナは声を落とし、吐息のように零した。


「……私、ここにいていいのでしょうか」


(私のせいで、ルイスを、みんなを困らせているのでは)


ルイスは歩みを止めないまま、けれど確実に彼女の言葉だけを拾い上げた。

春の熱気のただ中で、そこだけ水底のように静まり返る。


彼は顎をわずかに傾け、ニナの視線を逃さぬ角度で微笑んだ。


「私の隣以外に、君の席など無いだろう?」


冷たくも甘い確信。否定も疑いも許さぬ声音。

ルイスは嫉妬していた。だがその苛烈さは刃ではなく、失うことへの怯えを覆い隠すための、王子の優雅な仮面だった。


ニナの喉がかすかに震える。

――彼を不安にさせてしまったかもしれないという痛み。

その奥で、ほんのひとしずくの嬉しさが灯る。愛されているという確信を、否応なく身体が受け取ってしまうようだった。


「……はい」


ニナはほんの僅かに目を伏せ、柔らかく息を落とすように囁いた。


「私はあなたのおそばに」


ルイスはその声の温度を確かめるように、腰に添えていた手をゆっくりと上げ、今度は彼女の背へと位置を変えた。

触れ方はやはり壊れるほど優しいのに、逃れようのない所有。


「無理に背伸びをする必要はない。いつも通りでいてくれればいい。ただ微笑んでいてくれ。私が望むのはそれだけだ」


彼の声は低く落ち着いているのに、甘さは波のように忍び寄り、抗う力を奪っていく。


ニナはゆっくりと顔を上げ微笑んだ。

その微笑は透明なのに――誰よりも王太子の色に染め上げられているようだった。


ルイスはそれに満足げに目を細め、手の甲ではなく今度は彼女の耳元へ、吐息すれすれの距離で告げた。


「私だけを見ていればいい。他の物語など必要ない」


檻は甘く、空気は蜜のように濃く、春の宴の戦場の真ん中で、彼女は確かに“ルイスの花”として息をしていた。


ニナはルイスの胸元の衣を指先で摘まんだ。ほんの小さな仕草。だが確かな受諾。

頬は熱で濡れ、瞳は揺れながらも艶を増し煌めいている。


この時の彼女の心は、守られるほど深く愛されているという実感に満ち、彼の腕の中でしか呼吸できないような切ない安堵に身体を委ねることしかできなかった。


それでも、その精一杯の心身の重みは、ユリア不在の深い悲しみを一時忘れさせ、確かに幸福を刻んだ。


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