第42話 愛の鎖、選ぶ夜
九月。
戦は、あまりにも突然に終わった。
黒き竜が天を裂き、戦場を覆い尽くしたその日を境に、国境線は沈黙し、敵軍は総崩れとなって撤退した。
長期戦を覚悟されていた戦は、嵐が一瞬で過ぎ去ったかのように、王国の勝利という形で幕を閉じたのである。
王都セリオンには凱旋の鐘が鳴り響いた。
街路には花弁が撒かれ、旗が掲げられ、人々は互いの無事を確かめ合いながら、涙と笑顔を交わした。
王都そのものが戦場になることはなかった。
だが、勝利の陰で、帰らぬ者も少なくなかった。
誰かの父であり、兄であり、子であった命が、確かに失われている。
国は、生き残った。
けれど――その勝利には、ひとつだけ決定的な欠落があった。
黒竜ユリア王女。
戦の終結と同時に、その姿は忽然と消えていた。
王命により、王国中に探索の網が張り巡らされた。
騎士団、魔術師、密偵、地方領主。
あらゆる手段を尽くしても、王女の行方は知れなかった。
さらに水面下では、不穏な芽も育ち始めていた。
一部の教会勢力が、黒竜を「災厄」と断じ、密かに征伐を唱え始めたのだ。
それを知ったレオニス王は、即座に禁じた。
――黒竜は王家の象徴であり、国を救った存在である。
だが、人々の恐れと信仰は、命令ひとつで収まるものではない。
祝祭の喧騒が大きいほど、その裏で、不安と猜疑は濃く澱んでいった。
そして10月に差しかかり、王宮の空気は祝祭から静かな焦燥へと変わりつつあった。
*
ニナ・レイザルトは、月の離れの一室で、静かにその報せを聞いていた。
ユリア王女は、見つかっていない。
そして――シオンも。
胸の奥に、ぽっかりと穴が開いたようだった。
可憐な王女の姿も、無邪気に微笑む少年の面影も、今は夢の中でしか触れられない。
(どうして……)
問いは答えを得ることなく、心の底へ沈んでいく。
それでも、ふと思い出す。
別れ際に、シオンが向けてくれた、あの静かな眼差しを。
――必ず、守る。
――また、会える。
その言葉の意味を、あのときは深く考えなかった。
けれど今、ニナはそれを信じることを選んだ。
(きっと……シオンは、ユリア様のそばにいる)
理由はない。
ただ、そうであってほしかった。
そうでなければ、心が耐えられなかった。
ユリアがいない以上、ニナは本来、王宮を去る身だった。
侍女として仕えていた主を失った今、彼女に残された役目はない。
戻るべき場所は、ひとつ。
――レイザルト領。
ユリアが幼い頃を過ごした地。
そしてニナ自身が学び、人々の暮らしを見てきた、もう一つの故郷。
(きっと……あの方は、あそこに)
そう思い、王宮を離れる支度を進め始めた――その夜のことだった。
*
夜気は澄み、王城の回廊には月光が白く差し込んでいた。
石床に落ちる影を踏みながら、ニナは離れへ向かう。
「ニナ」
低く、落ち着いた声。
けれど、わずかに掠れている。
そこに立つルイスは、確かにニナの恋人だった。戦後も多忙の合間を縫い、幾度も夜を共に過ごしてきた相手でもある。
それなのに、彼女は驚いた。
――距離の近さではない。次に告げられる言葉の輪郭を、直感で悟ってしまったからだ。
月光はルイスの横顔を淡く削り、彼の輪郭を銀細工のように際立たせていた。
そしてニナを捉える視線は、触れずとも指先を絡められているかのような熱を帯びていた。
「……レイザルトへ戻ると聞いた」
なぜ相談しなかった、と静かに問いかける色を含んだ声音。
胸が、小さく跳ねる。
「はい。戦も終わりましたし……私の役目は、もう」
止められると分かっていた。止められても辛い。止められなければきっともっと辛い。だから言えなかった。
その真実は言葉にされず、息にだけ震えて滲んだ。
言い終える前に、距離が詰められた。
ルイスの手が、そっと彼女の手首に触れる。
強くはない。だが、指が触れるだけで互いの呼吸が混ざり合うほどの距離だった。
「行かないでくれ」
声は低く、穏やかで――だからこそ、拒めなかった。
「……君が遠くへ行ってしまうのは、耐えられない」
その視線は、戦の英雄ではなく、ニナという唯一の光を追う男のものだった。
異様なほどに美しく、執拗に優しい。砕けてしまいそうな切実さを帯びていた。
月明かりの下で、彼の瞳は湖面のように揺れていた。
王子としてではない。
一人の男として、縋るように。
「戦場で、何度も思った。
君が傷ついたら、君を失ったら――私は、何を守ってきたのか分からなくなる」
握られた指先から伝わる体温は優しい。
だがその優しさは、未来を差し出す形ではなく、失わぬための鎖のようだった。
「ニナ。君を、ここに留めたい」
囁くように、しかし逃げ場を断つように。
「王太子妃候補として」
ニナの胸に、氷片のような衝撃が走った。
あまりにも重い言葉。
あまりにも静かな声音。
王太子妃? 王妃? そのどちらも、まだ遠い物語の呼び名に過ぎない。実感は無い。
候補――その不確かな立場。自分はあくまで候補のひとり。悲しくも、その輪郭のぼやけた猶予にどこか安堵し、一瞬だけ縋ろうとした自分を、彼の視線が逃げ道ごと絡め取った。
「……それは、政治のため、ですか」
ニナは勇気を振り絞り、臆病な本心を隠しきれぬまま絞り出すような声で問うた。
ルイスは即座に首を振る。
「違う」
彼は一歩踏み出し、ニナを抱き寄せた。
強くはない。だが、離れられない。
「これは……私の、わがままだ」
耳元で、低く囁く。
「君がいない未来だけは、選べない」
その言葉は甘く、重く、そして決定的だった。
(この人の力になりたい)
そう思ったのは義務でも計算でもない。
――心が、先に決めてしまった。
自分にだけ見せるルイスの弱さ、すべてを支えたい。
――けれど、同時に頭に過ってしまった。
この選択は、きっと簡単には戻れないものだと。
ニナはそっと彼の背に腕を回した。
「……私で、よいのなら」
小さく。
けれど誰よりも強く響く選択の言葉だった。
ルイスの腕が、かすかに震える。
「ありがとう」
それは安堵であり、感謝であり、
そして――誓いのような声だった。
月は何も語らず、ただ二人を照らしていた。
それが――愛に選ばれた夜であり、
同時に――逃れがたい日々の始まりであることを、
まだ誰も知らなかった。




