第40話 別れの決意と、自由への飛翔
四幕 竜の涙
戦場が、嘘のように静まり返った。
黒竜はゆっくりと地へ降り立つ。
夕陽が砕けた甲冑や折れた槍の先端に赤い光を落とし、戦場全体が、まるで夢の残骸のように染め上げられていた。
轟音で裂けた大地には、倒れ伏した兵と砕けた武具が散乱している。
血の匂いは、なおも濃く、風に残っていた。
竜の瞳に映るその光景に、ユリアの心は震えた。
自分の力の、あまりにも圧倒的な恐ろしさ。
どれほど抑えたつもりでも、命は失われ、恐怖は広がった。
血の匂いは消えず、
倒れた者たちの痛みと絶望が、まだ大地に残っている。
――何度も、夢に見た。
竜となり、人々を傷つけ、
畏怖と憎悪を向けられる存在になる自分を。
もし、あの人がそばにいなければ。
ニナが、あの声で呼び止めてくれなければ。
(……きっと、わたしは――)
「……ニナ……」
低く零れた声に、後悔と安堵が滲む。
淡い光が彼女を包み、
黒竜の巨体は、ゆっくりと人の形へと戻っていく。
ユリアの白金の髪は、夜のように黒くなっていた。
頬には、夕陽を映してきらめく涙の痕。
そこに立っていたのは、
先ほどまで神話だった存在ではない。
名を持ち、傷つき、迷うことを知った――
ただ一人の、震える少女だった。
その瞬間――
周囲に、ざわめきが走る。
「……今だ」
「黒竜は、人の姿に戻ったぞ」
教会派の兵たちが、距離を詰めていた。
聖印を刻んだ盾、祈りの言葉を刻んだ槍。
盾が擦れ合い、金属の軋む音が、静寂を裂く。
誰かの祈りは、途中でかすれ、言葉にならず途切れた。
「神に仇なす存在だ……」
「今なら、討てる……!」
空気が、再び張り詰める。
ニナは、その気配に気づいた瞬間、駆け出していた。
躊躇いも、恐れもなかった。
「やめてください――!」
震える手で、ユリアを抱きしめようとする。
だが、ユリアはそっと首を横に振った。
「……だめ」
声は、かすれていた。
「ありがとう……ニナ。
でも……わたしは、まだ強くなれていない……」
涙が、静かに頬を伝う。
「ニナがいなければ、自分を保てなかった。
この力も、感情も、全部……
あなたがいないと、制御できないなんて……」
彼女は、そっと一歩、距離を置いた。
夕陽を背にした影の中、
その瞳に宿るのは、痛みと――かすかな決意の光。
「ユリア様……!
どこへ……行かないで……!」
ニナが必死に手を伸ばす。
けれどユリアは、悲しげに、しかし微笑んだ。
「……ニナ。
わたし、あなたに守られるだけなのは嫌なの」
兵たちが、さらに一歩踏み出す。
槍先がわずかに揺れ、覚悟と恐怖が同時に伝わってくる。
「自分で自分を律して、
あなたを――守れるようになりたい」
その言葉の意味を、ニナは悟ってしまう。
ここにいれば、
彼女は再び“災厄”として裁かれる。
「……だから……」
ユリアは一瞬だけ目を閉じた。
胸の奥で、黒竜の血が静かにうねる。
恐怖ではない。
選び取った、孤独と自由の感覚。
「……ニナ。必ず戻ってくる。
あなたのそばに」
次の瞬間、
彼女の背に、再び漆黒の翼が広がった。
風が戦場の塵を巻き上げ、
木々がざわめき、空気が震える。
「待って――!」
ニナの声は、翼音にかき消される。
黒き翼が、大地を蹴る。
轟音は一瞬で遠ざかり、
夕空には、裂けるような風の軌跡だけが残った。
夕焼けの赤に溶けながら、
ユリアの姿は、光と影を伴って遠ざかっていった。
⸻
黒竜は、夕闇を切り裂き、雲を突き抜けていく。
翼はもはや逃げ場ではなく、進むための道だった。
誰にも隠れず、誰の目も恐れず、
ただ――空へと身を預けるような、真っ直ぐな飛び方。
初めて、翼が“檻”ではなく、“自分のもの”になった。
王女としても、神話としても縛られない。
名を呼ばれ、畏れられる存在でもない。
ただ、ユリアとして。
ただ、竜として。
胸を満たすのは、痛みと同時に、確かな解放感。
それは幸福ではない。
だが、嘘ではなかった。
黒竜は雲を越え、
月光と、沈みきらぬ赤の残照を背に、次第に小さくなっていく。
ニナの手は、空を掴むだけだった。
引き留められなかったのではない。
引き留めては、いけなかった。
その事実が、重く胸を締め付ける。
やがて、夕空に残ったのは、翼の影すらない沈黙だけだった。
その背に宿るのは、
自由と――同じ重さの、孤独。
戦場に残されたのは、
勝利の歓声と、
ユリアを失ったニナの、嗚咽だけだった。
夕陽は沈み、夜の気配が静かに降りてくる。
血と涙に染まった大地に、しばしの沈黙が満ちていた。




