表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
41/70

第40話 別れの決意と、自由への飛翔

四幕 竜の涙


戦場が、嘘のように静まり返った。


黒竜はゆっくりと地へ降り立つ。

夕陽が砕けた甲冑や折れた槍の先端に赤い光を落とし、戦場全体が、まるで夢の残骸のように染め上げられていた。


轟音で裂けた大地には、倒れ伏した兵と砕けた武具が散乱している。

血の匂いは、なおも濃く、風に残っていた。


竜の瞳に映るその光景に、ユリアの心は震えた。


自分の力の、あまりにも圧倒的な恐ろしさ。

どれほど抑えたつもりでも、命は失われ、恐怖は広がった。


血の匂いは消えず、

倒れた者たちの痛みと絶望が、まだ大地に残っている。


――何度も、夢に見た。


竜となり、人々を傷つけ、

畏怖と憎悪を向けられる存在になる自分を。


もし、あの人がそばにいなければ。

ニナが、あの声で呼び止めてくれなければ。


(……きっと、わたしは――)


「……ニナ……」


低く零れた声に、後悔と安堵が滲む。


淡い光が彼女を包み、

黒竜の巨体は、ゆっくりと人の形へと戻っていく。


ユリアの白金の髪は、夜のように黒くなっていた。

頬には、夕陽を映してきらめく涙の痕。


そこに立っていたのは、

先ほどまで神話だった存在ではない。


名を持ち、傷つき、迷うことを知った――

ただ一人の、震える少女だった。


その瞬間――

周囲に、ざわめきが走る。


「……今だ」

「黒竜は、人の姿に戻ったぞ」


教会派の兵たちが、距離を詰めていた。

聖印を刻んだ盾、祈りの言葉を刻んだ槍。

盾が擦れ合い、金属の軋む音が、静寂を裂く。

誰かの祈りは、途中でかすれ、言葉にならず途切れた。


「神に仇なす存在だ……」

「今なら、討てる……!」


空気が、再び張り詰める。


ニナは、その気配に気づいた瞬間、駆け出していた。

躊躇いも、恐れもなかった。


「やめてください――!」


震える手で、ユリアを抱きしめようとする。

だが、ユリアはそっと首を横に振った。


「……だめ」


声は、かすれていた。


「ありがとう……ニナ。

でも……わたしは、まだ強くなれていない……」


涙が、静かに頬を伝う。


「ニナがいなければ、自分を保てなかった。

この力も、感情も、全部……

あなたがいないと、制御できないなんて……」


彼女は、そっと一歩、距離を置いた。


夕陽を背にした影の中、

その瞳に宿るのは、痛みと――かすかな決意の光。


「ユリア様……!

どこへ……行かないで……!」


ニナが必死に手を伸ばす。

けれどユリアは、悲しげに、しかし微笑んだ。


「……ニナ。

わたし、あなたに守られるだけなのは嫌なの」


兵たちが、さらに一歩踏み出す。

槍先がわずかに揺れ、覚悟と恐怖が同時に伝わってくる。


「自分で自分を律して、

あなたを――守れるようになりたい」


その言葉の意味を、ニナは悟ってしまう。


ここにいれば、

彼女は再び“災厄”として裁かれる。


「……だから……」


ユリアは一瞬だけ目を閉じた。

胸の奥で、黒竜の血が静かにうねる。


恐怖ではない。

選び取った、孤独と自由の感覚。


「……ニナ。必ず戻ってくる。

あなたのそばに」


次の瞬間、

彼女の背に、再び漆黒の翼が広がった。


風が戦場の塵を巻き上げ、

木々がざわめき、空気が震える。


「待って――!」


ニナの声は、翼音にかき消される。


黒き翼が、大地を蹴る。

轟音は一瞬で遠ざかり、

夕空には、裂けるような風の軌跡だけが残った。


夕焼けの赤に溶けながら、

ユリアの姿は、光と影を伴って遠ざかっていった。



黒竜は、夕闇を切り裂き、雲を突き抜けていく。

翼はもはや逃げ場ではなく、進むための道だった。


誰にも隠れず、誰の目も恐れず、

ただ――空へと身を預けるような、真っ直ぐな飛び方。


初めて、翼が“檻”ではなく、“自分のもの”になった。

王女としても、神話としても縛られない。

名を呼ばれ、畏れられる存在でもない。


ただ、ユリアとして。

ただ、竜として。


胸を満たすのは、痛みと同時に、確かな解放感。

それは幸福ではない。

だが、嘘ではなかった。


黒竜は雲を越え、

月光と、沈みきらぬ赤の残照を背に、次第に小さくなっていく。


ニナの手は、空を掴むだけだった。


引き留められなかったのではない。

引き留めては、いけなかった。


その事実が、重く胸を締め付ける。


やがて、夕空に残ったのは、翼の影すらない沈黙だけだった。


その背に宿るのは、

自由と――同じ重さの、孤独。


戦場に残されたのは、

勝利の歓声と、

ユリアを失ったニナの、嗚咽だけだった。


夕陽は沈み、夜の気配が静かに降りてくる。

血と涙に染まった大地に、しばしの沈黙が満ちていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ