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第39話 伝説顕現 ― 勝利と、代償

三幕 伝説の顕現


戦場の風が、焦げた鉄と血の匂いを幾重にも絡めて運んでいた。

負傷兵の呻きは途切れることなく続き、地に敷かれた白布は、次々と紅に染まっていく。


ニナはその一人ひとりに手を伸ばし、声をかけ、必死に呼吸を繋いでいた。

手当て袋から小さな革水筒を取り出し、乾いた唇にそっと水を含ませる。

冷えかけた手を両手で包み、震える声を押し殺しながら名を呼ぶ。

だが――呼びかけに応える声は、刻一刻と減っていく。


瞳を開いたまま、もう何も映していない者。

名を呼んだ瞬間に、すっと体温が失われる者。


(――どうして……)


剣も、魔法も持たぬ自分にできることは、ただ傍らに膝をつき、祈ることだけ。

それでも、その祈りは次第に言葉を失っていった。


その隣で、同じように膝をつく影があった。


ユリアだった。

王女の衣は裂け、頬には泥と血がこびりついている。

それでも彼女は、身分も立場も忘れたように、負傷兵の手当てをしていた。



「……もう、これ以上は……」


かすれたニナの声に、ユリアはふと顔を上げる。


その瞳は、明らかに疲弊していた。


膝をついたニナは、

動かなくなった兵の手を、そっと包み込んでいた。


「……ごめんなさい」

それだけを、繰り返す。


そして、声にならないほど小さく――

「……ありがとう」

感謝を伝えたかった。


その背を――

ユリアは、ほんの数歩離れた場所から見ていた。


胸の奥が、激しく痛んだ。

“この場所に、ニナを立たせている”という事実が。


彼女の背後では、敵軍が雪崩れ込み、味方の陣は今にも崩れ落ちようとしている。

味方の旗が、いくつも地に倒れていくのが見えた。

矢が空を切り裂き、爆ぜる光が地を穿つ。

もはや誰の叫びも、全体には届かない。


(守ると、言ったのに)


「ニナ」


名を呼ぶと、彼女は顔を上げる。

泣いてはいなかった。

それが、かえって苦しかった。


「ニナ。……約束、忘れてないよ」


その言葉は、誓いだった。


そして――限界を告げる合図でもあった。


その瞬間、ユリアの中で何かが切れた。


(――この人だけは)


失わせない。

国を守ると決めたのは、

この人のためだ。


王家の血が、応えた。


――それでも。

ニナの存在だけは、ユリアの視界から消えなかった。


ニナは見てしまった。

ユリアの肩が、ほんの一瞬、痛みに震えたのを。

そして――彼女の内側から、淡い光が滲み出すのを。


それは血だった。

王家の血に眠る、竜の記憶。

長き時を経て封じられてきたものが、静かに、だが確実に目を覚ます。


――まだだ。

まだ、人のままでいられる。

そう言い聞かせるように、ユリアは歯を食いしばっていた。

一度この力を解けば、味方をも巻き込むかもしれない。

制御できなければ――

彼女の前で、自分は“怪物”になってしまう。

それだけは、まだ選べなかった。


だが。


“守りたい”


その願いが、祈りでは届かぬ場所にまで踏み込んだ瞬間。

彼女の内に眠る黒竜の力が、理性の壁を越えて応えた。


眩い闇がユリアを包み込み、空気が悲鳴を上げる。

風が逆巻き、空は黒く渦を巻き、大地が低く唸った。


ニナは思わず腕で顔を覆う。

視界のすべてを奪うほどの闇が爆ぜ――そして。


それは、翼だった。


空を覆い尽くす、漆黒の翼。

一枚一枚が夜そのもののように広がり、戦場に影を落とす。


轟音と共に大地が揺れ、兵も馬も悲鳴を上げて逃げ惑う。

そこに現れたのは、神話の中でしか語られぬ存在。


――黒き竜。


烈風が吹き荒れ、砂塵が天を覆う。

人々は思わず膝を折った。


「く……黒竜……!」

「伝説の……災厄……?」

「終わりだ……もう……」


敵も味方も、等しく畏怖に呑まれる。

だが――竜の瞳に宿る光は、怒りではなかった。


紫に揺れるその光は、深い悲しみと、抑えきれぬ苦悩。


竜は翼を打ち下ろす。

怒りではなく、拒絶のために。


烈風が敵陣を薙ぎ払い、重装兵も馬も、木の葉のように宙を舞う。

陣形は一瞬で崩れ去った。

――それでも、炎は吐かれない。


だが、胸の奥で、別の衝動が蠢いていた。


竜の咆哮が、雷鳴のように戦場を引き裂いた。

空気そのものが震え、衝撃波が無差別に走る。


「――っ!」


味方の兵までもが吹き飛ばされ、地に叩きつけられる。

悲鳴が、敵味方の区別なく上がった。


「逃げろ――!」

「伏せろ!」


黒竜は、はっとしたように首を振る。

自分が何をしかけたのかを、遅れて理解する。


口奥に、赤黒い光が灯る。


理性が、軋む。

ほんの一瞬、竜の首が持ち上がり、顎が開きかける。


そのとき。


戦場の轟音にかき消されるはずの声が、確かに届いた。


「――ユリア様!」


黒竜の瞳が、大きく揺れた。


名を呼ぶその声が、魂の最奥を撃ち抜いた。

赤黒い光は霧散し、代わりに紫の光が戻ってくる。


(……ニナ……)


それは言葉ではなく、心に直接響く声。

竜の中に残る“ユリア”が、確かに彼女の名を呼んでいた。


竜は、深く、重く息を吐く。


(約束した……ニナと。

できるだけ、人は殺さないと……!)


翼が再び動く。

放たれた烈風は鋭く、容赦なく敵を吹き飛ばす――

だが、致命の一撃ではない。


地に倒れた兵の中には、まだ息のある者もいる。

呻き声が、微かに残る。


けれど――

すべてを救うことは、できなかった。


風に叩きつけられ、二度と動かぬ身体。

その中に、つい先ほどまでニナが声を掛けていた兵の姿があった。


命の灯が消えるたび、

黒竜の胸の奥が、きしりと音を立てて締め付けられる。


「勝った……」


誰もが悟っていた。

勝敗は、すでに決しているのだと。


圧倒的な力の前に、剣も槍も意味を失い、

兵たちはただ畏怖に縛られていた。


その中央で――

黒竜の瞳だけが。


人間のように、静かに涙をこぼしていた。




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